戴冠、或いは暁を待つ

あらすじ

夢見る竜の支配するかの国の長い歴史において、
唯一の女王たる〈鉄の女王〉ルカ・アデル・セン・クレイゼラッドに関する記録は少ない。

ただひとつ、若かりし日の彼女自身が綴ったとされる、
真偽もわからぬ物語を除いては。

――美少女のような姿の魔術師と、男装の王女の、王位簒奪に至るまでの前日譚。

本編

  • 序:この物語の成り立ちについて

     真新しい本のインクの匂いが好きだ。だから、本を読むのは嫌いではない。 読書が好きかと問われれば否と答えるが、新しい本を開く瞬間のわくわくした気持ちは好きだ。――そんな僕の手で開かれたのは、編纂作業と発行が終わったばかりの新版の史書。 旧い…

  • 一:王女と新しい仕事 i

     領主邸の囲いの中には、本来なら三棟あるはずの建物がふたつしかない。領主が住んでいたはずの邸宅がないからだ。 それは燃えてしまったのだ、と教えてくれたのはハイロである。けれども残るふたつの建物には、焼け跡どころか燻された様子もなく、ましてや…

  • 一:王女と新しい仕事 ii

    「それで、その仕事を受けたのか」 鍛冶工房に設えられた一室、住み込みの弟子たちのために用意された空間で、ハイロはくるりと目を丸くした。 白昼の室内において、彼の瞳は深い瑠璃の青を呈している。そのまなこを視線だけでうかがい見ながら、僕はひとつ…

  • 一:王女と新しい仕事 iii

    「へえぇ、ついに目付役がつくんですね。いい気味です」 とアマリエは言った。 僕が思わず目を丸くすると、わざとらしい咳払いをひとつ。それでもさも楽しそうな、嬉しそうな、底意地の悪い顔は隠し切れていない。 思えばこの小さな侍女は、主人に忠誠を誓…

  • 一:王女と新しい仕事 iv

    「いや、普通に言いたくねぇ」 クロイツの返答は明瞭だった。「言えない、ではなく?」「二回言わせんな。話してやってもいいが、はじめから最後まで話すと丸一日かかる」「……またずいぶんと長いな」「だから言いたくねぇって言ってんだろうがよ」 予備の…

  • 一:王女と新しい仕事 v

    「言いたくない、か」 僕の話を聞き終えたハイロは、大きな掌で自分の顔を撫でつけた。ついで考え込むようにぐるぐる唸る。獰猛そのものの響きはしかし、僕の中にある恐怖を呼び起こすことはない。「いくつか心当たりはあったんだけど、なんだかどれも違いそ…

  • 一:王女と新しい仕事 vi

     丘の麓には、城壁が迫る。 かつてトゥーリーズは工房を擁する城であったため、城そのものが解体された今でも壁のことを城壁と呼ぶのだ。当時の功績を讃え、これには〈銀の壁〉という名前があった。 この〈銀の壁〉は壁伝いに歩くことで、どの通りにも入る…

  • 一:王女と新しい仕事 vii

     役人の男はダーヴィトと名乗った。彼が教えてくれたところによると、軍服をまとった女のほうはケイというらしい。 クロイツとの言い争いに及んでいない彼女は、どちらかといえば寡黙だった。それを補うようにダーヴィトのほうは話好きで、的確に仕事を捌き…

  • 一:王女と新しい仕事 viii

    「長居してもいいことねぇから」 未だ騒ぎの渦中にある門前広場を抜け、クロイツは手早く通りのひとつに滑り込む。 彼に従って足を踏み入れたのは、細工師通り――ここだけは坂ではなく、階段で上り下りをする作りになっている。通行する荷車や馬を妨害する…

  • 一:王女と新しい仕事 ix

    「ラリューシャとクロイツは古い知り合いだからね」 そう言ってエクリールは喉の奥だけで笑った。 役所へ招かれた僕の一連の報告を聞いて、最初に示した反応がそれだった。話題にされた側はといえば、拗ねたように明後日のほうを見ている。 今日一日で慣れ…

  • 二:魔術師は語る i

     夢を見ていた。僕がまだ故郷にあったころ、父も健在であったころの夢である。 父はけっして名君ではなかったが、国をいたずらに荒らすこともなかった。そんな父の血を引く僕の同胞は、さながら気弱が服を着て歩いているような有様だった。 対する僕は喧伝…

  • 二:魔術師は語る ii

     耳朶を打った悲鳴は、きょうだいが上げたものによく似ていた。目覚めたとたん、目に入る天井が王宮の白石ではないことに面食らってしまうほどに。 木目もあらわな天井の下、二枚重ねの毛布を跳ね上げて、寝間着のままで外へ出る。そうして一等に出会ったの…

  • 二:魔術師は語る iii

     昼時、職人の名を冠された通りはひとでごった返している。坂の下の門前広場から、屋台やもの売りが登って来るせいだ。さらには飯屋からの配達人やら、昼食を買いに来る人間やらが加わって、王都でもそうそう見られない光景がそこにはあった。 僕らは白昼夢…

  • 二:魔術師は語る iv

     息を切らせて登りつめた先には、クロイツ以外の人影が幾らか。軍服に特有の染料で染められた花紺の色は、晴れの日の空にも鮮やかだった。 彼らは僕の姿を認めると、揃いも揃って瞠目してみせる。「無茶をさせたなぁ」 白茶の髪の男がそう言って魔術師を見…

  • 二:魔術師は語る v

     帰りに階段を降りずに済むのなら、記念に段数くらい数えておくべきだった。そんな馬鹿げた思考をするくらいには、ゴンドラによる移動は早い。しかも足を動かさなくていい。 クロイツは外套のフードを被ったままの姿で、いっしょにゴンドラに乗り込んだ軍人…

  • 二:魔術師は語る vi

     雪雲はトゥーリーズへのしばしの滞在を決めたようだった。 三日にわたって雪を吐いた雲がいなくなると、翌朝は目映いばかりの陽が照った。 僕らの国はそもそも雪深い北の王国だが、長い降雪のあとの刺すような日差しを見るにつけて、冬が深まった感覚を覚…

  • 二:魔術師は語る vii

     役所から戻って来たエクリールは、今日になっても宿舎から出て行かなかった。 彼の住むべき場所は本来この宿舎の個室であるから、間違いではないのだが、珍しくないと言えば嘘になる。なにせ僕がこの街へ身を寄せたときからこちら、彼の住まいはずっと役所…

  • 三:大嘘つきたちの夜 i

     朝食を食べる前に、僕はそっと宿舎を後にした。机の上へ、しばらく出かける旨を書いた手紙だけを残して。 まだ明け切らぬ夜の下、領主邸の土台の片隅に立ったクロイツの姿は、あいかわらず鮮烈かつ清冽な白さだった。箱入り娘の僕から見ても、それが未明の…

  • 三:大嘘つきたちの夜 ii

     夜明け間近の門前広場は、しんと静まり返っていた。まるで泉の底に沈んでしまったようだと思ったのは、ここが壁と斜面に挟まれた土地であるからだろう。 当然ではあるけれど、ここにクロイツの姿はない。むしろひとの姿自体が稀有である。 遠くを歩く巡回…

  • 三:大嘘つきたちの夜 iii

     事実、川縁にあるトゥーラの通関の事務所は、滞在証の裏書きを理由に僕を拒むことをしなかった。ただひどく奇妙なものを見る顔つきをして、割符の片割れを預かる旨を告げる。 僕が割符を手渡すと、担当者の男は表書きの名前を台帳へと書き付けた。「迎えは…

  • 三:大嘘つきたちの夜 iv

    「いやはや悪いねえ、お姫様」 扉の閉まる音の余韻も絶えた後、イラテアは足の上下を組み替えた。 彼女が摘んだ髪は白い。黒い毛先まで指が滑るのを眺めてから、僕はうなずく。イラテアからの呼び名に対し、驚く気持ちは自分でも不思議なほどに湧かなかった…

  • 三:大嘘つきたちの夜 v

    「――ねぇ、クロイツ。起きている?」 微睡んでいた目を開く。 といっても本当に自分が眠っていたかどうかすら、今の僕にはあやふやだ。なにせ、今朝は日が昇る前から起きていた。眠りに落ちた自覚はなく、白い緞帳を通した陽光も、未だ明るさを保っている…

  • 三:大嘘つきたちの夜 vi

     喧嘩はできない、と魔術師は言った。 けれども、なにもできないわけではない、とも彼は言った。 白い布の向こうで辰砂の光が翳り、みずからの瞳と同じ色の闇が落ち切ったころ、魔術師は堂々たる態度で帳を開いた。「起きてるな。行くぞ」 たしかに眠って…

  • 三:大嘘つきたちの夜 vii

     三者の姿がすっかり見えなくなったのち、僕らは馬上のひととなった。 金を払って回収して来たという馬の上から、クロイツは嬉しそうな顔で僕に滞在証の割符を投げ渡してくれる。聞くに、これは官吏に金を握らせて回収して来たものだという。冗談だろうとは…

  • 四:王の獣 i

     アマリエは僕から上着を預かると、廊下の向こうへ消えて行った。 そうして自室の前にひとり残されたまま、過ぎ去ってしまった夜を想う。冷静になってみると、昨日から今日へ、すとんと飛ばされて来てしまったような気分がした。 部屋のドアノブを開けて中…

  • 四:王の獣 ii

     目が覚めたそのとき、部屋に燻っていた薄明は紛うことなき朝日の一端だった。 そう判じた理由はなんのこともない、扉を隔てた先にあるひとの気配が、朝に特有の慌ただしさを帯びていたせい。 簡単に身繕いをして外へ出た刹那、ちょうど廊下を歩いて来たア…

  • 四:王の獣 iii

     結局のところ、僕がふたたび魔術師の姿を見つけたのは、宿舎の住人の大半が夕餉を終えた刻限のことだった。 白い布を頭から被った姿は特徴的で、たとえ後ろ姿でも見間違うことはない。「クロイツ」 名前を呼ぶと、安楽椅子の上の白い布地がかすかに揺れる…

  • 四:王の獣 iv

     翌朝街へ出ることを告げた僕に、アマリエは細々とした荷を持たせてくれた。シロップと卵黄を混ぜて糖蜜がけにした菓子や、白色で刺繍を入れた布巾の束、それからハイロに貸すための本――彼女にとって、僕がどこへ行くかは聞かずともわかるものらしい。 用…

  • 四:王の獣 v

     大荷物を持って通りを抜けるのも、長物を持って路地を抜けるのも、僕には成し遂げるだけの勇気がなかった。結果的に時間を潰すため、僕は昼食を摂ることにした。 ハイロが戻って来たのは、ちょうどその終わり。 弁当売りたちの姿も、通りから消え始めた頃…

  • 四:王の獣 vi

     僕の部屋を訪ったアマリエは、懐かしいものを見る目をしていた。「夜にここへ来るのは久しぶりです。昼間とはずいぶん雰囲気が違いますね」 言いつつ、僕が促すままにベッドの上に座る。彼女が枕と毛布をベッドに並べるのを見ながら、僕は床の上に自分の毛…

  • 四:王の獣 vii

     夜半、であるのだと思う。僕が、硬い床の上で目を醒ますに至ったのは。 目を開けてみれば、あたりはうっすらと明るい。眠っていたから目が慣れているのだろうかと思ったが、二重硝子の採光窓には雪片がついていた。それに当たった月明かりが、室内にほのか…

  • 終:物語の終わり i

     宿舎側の犠牲者は、四名いた。 その全員が親戚縁者の類を持たない、天涯孤独のひとびとだった。そういう人員は全員置いて行ったのだと、エクリールは言っていた。 つまりは、決死隊だ。 有事の際にはおまえたちが命を捨てて王女を守れと、彼は言外の命を…

  • 終:物語の終わり ii

     それからの話をしよう。 死者の弔いを終えてから、エクリールは兄たちに短い手紙を書いた。 トゥーラへの道程を取って返してしまった以上、もはや彼には言い逃れなどできない。ならば早々に挙兵するまでだと、銜え煙管で彼は笑った。 その手紙が早馬に乗…

  • 終:物語の終わり iii

    「して、ルカよ」 東の空にようやく月が見えたころ、クロイツはいつもの調子でわたしを呼んだ。 星を数えていた目を瞬かせ、わたしはそっと彼のほうを見る。「おまえは王になるべきだ」 なぜ、と彼は言わない。だからわたしも、なぜ、とは問わない。 かわ…