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 この世界には「竜」がいる。契りを結べるのは、紫の目を持つ人間だけ——祖父が繰り返し語っていた言葉である。
 たったひとりしかいなかった祖父の目は母と同じ鳶色であったので、 この世界などと曖昧な言葉を使っていたのだろうと思う。もっとも祖父を亡くした今、その真意をたしかめることは、イェナという少女にとって永遠に叶わない事項のひとつになった。
 物心ついて以来、イェナにとって「この世界」とは「そのあたり」と呼ぶほうがしっくり来る言葉だった。竜はこの世界にたくさんいる。まずはじめに、イェナが生まれたドロッセルのお偉方のひとり、熾がそう。遠い別の町にいるという燦と爛もそう。それからわざわざイェナを訪ねて来る者もそう。
 実のところ、誰かと契りを結ばない限り、竜たちは(物理的な、という意味の)この世界に接触できない。おかげでイェナを訪ねて来る者の姿が見えるのは、家のなかではイェナだけだった。
 つまるところイェナは家のなかにたったひとりの紫の目の持ち主で、竜と契りを結べる人間であったわけだ。もっとも、イェナ自身は己の来歴をよく知らず、同時に得をしたと思うこともなかったけれど。
 

 
 イェナにとって頭痛の種であった竜たちは(世間一般、という意味の)この世界では神として崇められている。神として崇められる以上は、信仰があり、宗教がある。
 その頂点に立つ最高神官は、イェナの生まれたアドラの隣、おそろしく小さなユーレという国に暮らしているらしい。らしい、というのは、イェナがサプレマどころかユーレも見たことがないからだ。正確にはユーレに入る前に止められてしまったから、というのが正しいかもしれない。
 止められたのは、ユーレの国境にほど近い海辺の町――メーヴェである。
 一晩の宿を求めた親戚は、イェナがユーレに入るのはやめるべきだとは顔をしかめた。
「それじゃ、あんたはここで待ってなさい」
 母の判断は素早かった。十二歳の娘のことよりも自分の欲求が勝ったらしい。
「お土産は買って来るからね」
 手を振って去って行く母の背を見送り、イェナはメーヴェに残されることになった。色眼鏡のなかに隠した紫の瞳を恨めしく思うのは、今日昨日に始まった話ではない。

 母の帰りを待って三日目の夕刻、イェナはひどく奇妙なものを見た。海を臨む高台の手すりの上に、ひとり佇む女の姿だ。
 見上げた高台の上には彼女を除いて人っ子ひとりいない。投身自殺をするには最適なシュチュエーション。潮風に晒されて錆の浮いた手すりに乗った足は細く、日焼けとは縁遠い白さがやけに目についた。
「あのう」
 と小さく声をかける。返答はない。
 これから死のうという人間には相応しい態度だ、とイェナは思った。ついで、まぁ、とも思う。相手がこちらを無視するというなら、それはそれでやりようがある。足音を殺して歩きながら、イェナは自分の手を見下ろした。肉刺のひとつもなく、日焼け跡もなく、骨の形のよくわかる痩せぎすの手だ。
 イェナは外遊びをした経験がすくない。したがって、同年代の人間にはほとんど触れたことがなく、年下の子どもにはまったく触ったことがない。大人なら多少経験あり、というところ。一度身体が完成した彼らは、よっぽどのことがない限り、子どもよりも頑丈だ。
 だからこそ、手すりから落ちたくらいでは死なないはず。そう意を固めて階段を登る。手を伸ばす。あらゆる竜たちが特別なように、竜と契りを結べる人間もまた特別だ。詳しいところは知らないが、紫の目の人間はみんな揃って頑丈で、力も強い。竜がいなくても子ども同士の喧嘩くらいなら負けなしなのだ。たぶん。
 大人を手すりから引きずり下ろすくらいは造作もない。伸ばした手はたしかに女の服(見慣れない服だな、とイェナは思った)の裾をつかみ、後ろに向かって引っ張った。すくなくともイェナの意識のなかではそうしたはずだった。
 それからしばしの間に起きたことのすべてについて、イェナはあまり思い出したいとは思わない。
 ――振り返った女がぎょっと目を見開き、手すりの向こうに落ちた。というよりは明確な意思を持って足場を踏み切った。一瞬だけ垣間見えた瞳は深い藍。空に踊った脚は抜けるように白い。しゃらんと音を立てたのは髪に結った飾り紐だった、ような。
 意図することなく開いた唇が耳を劈く悲鳴を上げて、鼓膜の余韻を拭い去って行った。あわてて口を閉ざしたイェナは、手すりの上から身を乗り出す。
 下方に広がる海は恐ろしく昏い色をしていた。
 打ち寄せた波が散らす飛沫ばかりが白い。それに紛れてしまってか、女のあの細い白い脚は見つからない。吐き気のようなものがこみ上げてきて、イェナはその場にへたり込んだ。
 人を突き落としてしまったかもしれない。あるいはその引き金になってしまったかも。手出しをすべきではなかった、という言葉がぐるぐると頭を回っている。それでも幸運というべきか、見渡した高台の上に人気はなく、イェナの行為を咎める者はいなかった。
 浅い呼吸を繰り返すことしばし、努めて深呼吸をしてから、イェナは立ち上がった。立ち上がろうとした。錆の浮いた手すりを握って、二本の足に力を込める――
「おい」
 と声が投げかけられたのは、ちょうどイェナが立ち上がりかけたそのときのこと。やけに低く、聞きようによっては勇ましいほどの女の声だ。
 受けて、イェナは急いで背筋を伸ばした。振り返れば先のイェナと同じ階を登り、人がひとり高台へやってくるところだった。
「そんなところでなにをしている? 死ぬつもりか?」
「いいえ、あの……」
 風に尾を引く女の髪は黒に近い色をしている。夕暮れ時の赤光に負けることのない、深い青色。
 ――およそ人間の髪の色ではない。
「おまえ」
 階段を登り切った女はきつく眉間に皺を寄せた。
「返事をしたな、このわたしに」
 ほら来た、とイェナは思う。そうして文字どおり頭を抱えた。うつむき、下を見た目線の端に肌の白さが翻る。女は紛れもない素足でイェナのほうに歩み寄ってくる。一歩足が前に出るたび、しゃらしゃらと鈴が鳴った。
 やがて女はイェナの前で足を止め、うつむけた顔をのぞき込んでくる。ついで彼女は眉間の皺を深め、
「いや、偶然か?」
 とのたまう。
 イェナは反射的に顔を逸らした。色眼鏡の蔓をつかむ。途端に女はありありと目を見開いた。深い深い藍色の、その目を。
 眼前に立つ女はまちがいなく亡霊のたぐいだ。だから話しかけるべきではないし、相手にするべきでもない。そう思って注意していたはずなのに、よもや手を出してしまうなど。後悔はイェナのうすい胸をまたたく間に埋め尽くした。
 その源泉たる女はイェナの顔が向く先にみずからの姿を割り込ませる。
「色眼鏡のせいでよくわからなかったが。おまえ、紫の目だろう。いやしかし、そういう体質の人ということもなくはないのか? よくは知らんが」
 ――この世界には竜がいる。彼らの来歴はこの世界のどこか。かつて死した者のほんのひと握りが、この世界で二番目の生を得た現象そのものを、人は竜と呼んで畏れ敬う(もっとも、彼らがほんとうに「竜」かどうかは、当人の好みによるところである)。
 彼らと契りを結べるのは、紫の目を持つ者たちだけだ。契りを結ばない竜を見ることが能うのもまた、紫の目を持つ者のみだとされる。つまりはユーレの最高神官を頂点にした聖職者たち、それからアドラに君臨する御三家、ついでにイェナのような者たちだけ。人はそれを宿竜種だのキャリアだの神官だの自由にと呼ぶ。
 信仰の対象とされる竜たちはとても自由だ。彼らは物理法則に縛られることはなく、ほいほいとどこへでも姿を現すことができる。
 反面、彼らは自由が過ぎて、キャリアとの契約抜きでは物理世界に影響を及ぼすことができない。イェナに直接手出ししないところを見るに、女は契約者を持たない野良竜でもあるのだろう。
「正直に言ったら秘密にしてくれますか?」
 放っておけば害はない。――だというのに、イェナはいくらか控えた声でそう問うた。
 女は片方だけ眉を上げる。
「他の竜どもに?」
「そうです。わたしは竜と契約するつもりがないので」
 言ってイェナは立ち上がった。対する女は腕を組み、指先でとんとんとみずからの腕を叩いている。黙考にともなう仕草のようだった。
 やがて彼女は形のよい唇を開くと、
「構わないが、それはわたしになにか利のある話か?」
 と問うた。
 イェナは間髪入れずにうなずく。
 幸いにしてイェナは契約とは別の形でもって、竜たちのために差し出すことができるものを持っている――
「わたし、ここではない町から来たんですけれど」
 おかげでイェナは、竜と契ることなくここまで来た。
「その町に戻るまでの間でよければ、話し相手くらいにはなって差し上げます」
 竜たちは基本的に退屈する生き物だ。だからこそ竜たちはキャリアに契約を求め、世界に触れることによって、悠久に近い時間の慰みにする。
 要するに、だ。
 暇つぶしを提供できれば――あるいはそれ以上の利を得られないことを悟れば、出会った竜はいずこへなりとも去ってゆく。
 女はそっと自分の顎をつかんだ。品定めでもするように、上から下までじっとイェナの姿を眺める。
 やがて彼女はふむと声を発すると、
「では、そういう約束をするとしよう」
 と言った。その声色にはありありとした笑みの色が浮かんでいる。顔も同様だ。
 それとは逆に、イェナは内心で舌を打った。
 竜のなかには暇つぶしを求めず、現状に満足して暮らす者もいる。
 ひょっとしたら目の前の竜はそういう手合いであったかもそれない。だとしたらイェナは藪を突いてしまったようなものだ。しかも出てきたのは蛇ではなく竜である。
 今も昔も、イェナにとっての竜は頭痛の種にほかならない。それについてはこれから先も変わることはなさそうだ、と娘は思った。

 メーヴェという町の話をする。その町はアドラのなかでは田舎も田舎、アドラが誇る通信機器の数々もほとんど使いものにならないほどだ。
 いっぽうで、家々の青い装飾建築と白い壁の対比は美しく、風光明媚という言葉がしっくりくるのだ――とは、出かける前の母の言。
 しかしながら、実際に目にした結果は真逆だ。メーヴェの青と白の町並みは、イェナにはどことなく不吉なものに見える。その印象を裏打ちするのは、かたわらを歩く竜の姿にほかならない。
 イェナは国教を強く信奉しているわけではないが、水竜だけはすこし苦手だ。
 なぜなら、イェナのそばにいる火竜が水竜をひどく嫌っているからだ。
 彼は何度も何度も、水竜たちを「恐ろしく野蛮で仮に溺れ死ぬ寸前に手を伸ばされても絶対に関わり合いを持たないほうがいいもの。いつか絶滅すべきもの」と罵った。おかげさまで、イェナもなんとなく水竜が苦手なのである。
 とにもかくにも、といつかの火竜は言った。あいつらは自分勝手だ。
 火を消せるのは当然として、その気になれば大地も削れる。雷を作る雨雲も自分たちの領分で、風すら雨雲を運ぶ子分くらいに思っているにちがいない。忌々しげに語る火竜の言葉と裏腹に、青い髪の水竜はおとなしい。
 道すがら、彼女は先の話を蒸し返すような真似をしなかった。かわりにいつもどおりに押し黙り、前を向いて歩いている。そのさまをちらと一瞥し、イェナもまた前を見た。
 そして不意に、メーヴェの町並みには不釣り合いな姿を見る。
「きょ」
 と奇妙な声が出た。足が止まった。
「きょ?」
 前に進んでしまった水竜が、紺碧の髪をひるがえしてイェナを見る。いぶかるように細められた目は、思えばメーヴェの家々を彩るものと同じ色だった。これがメーヴェ土着の竜ではないなどと、いったい誰が信じよう。
「今日帰ってきたんだな、お母さん……」
 対する母は眩しいほどの薄青で染めた服を着込んでいる。
 これが数代前にメーヴェにルーツを持つ女だと言って、いったい誰が信じよう。色そのものの系統はともかくとして、服を染める化学的な染料の色はメーヴェには絶対的に似合わない。陽の光によってまろやかに褪せ、調和を得たメーヴェの色彩とは、むしろ対極に位置する色彩だった。――めまいがした。
 水竜はしばし興味深げに母シエタの姿を眺め、
「カセンダ」
 とよくわからない言葉を口にする。
 竜たちだけの言葉かもしれず、あるいは人にもわかる(イェナが知らない)言葉かもしれなかった。なんにせよ、イェナはあえてそれを尋ねることをしない。
 かわりにとばかり、手を振るシエタに向けて手を振り返す。
 シエタは人の母であることが信じられないほど若々しい。イェナの母だと言って紹介すれば、誰もが目を疑うほどだ。少女のように可憐で、愛らしい。対するイェナについては、あくまで柔らかい表現を用いるなら、シエタの娘には見えないというところ。
「ごめんねぇ、イェナ。だいぶ待たせちゃった!」
 駆け寄る足取りは軽く、声色は甘い。
「ユーレってばびっくりするくらい田舎なの。国境を超えるだけでもすっごい手間で、グライトまで行くのも一苦労だったわ。それで仕方なく滞在を短くしてきたんだけど、もうねえいったいいつの時代のつもりなのかしらって感じ。お城とかあるのよ。それでねえ、さらにすごいのが――」
 驚くほど口がよく回るのも、シエタの大きな特徴だった。
 矢継ぎ早の言葉に対し、水竜は呆然とした顔を繕おうともしない。あんぐり開いた唇を認めると、イェナは母に向かって微笑みかけた。
「それで、サプレマには会えた?」
 シエタはぱんと手を打った。それから眉尻を下げ、頭を振る。大仰な仕草はどこか幼い子供のようだった。
「当代のサプレマはね、グライトにはいなかったの。心当たりを聞いたけれど、秘密なんですって。だからねぇ、お母さんはサプレマには会えずじまいでした」
「それは……なんというか、残念だったね」
 ほんのすこし前のことになるが、アドラはユーレにご執心だった。軍事国家にとってのご執心とは、当然のことながらあまりよい意味合いではない。平たく言ってしまえば国境を侵犯し、国土を侵略せんとして、暴力をもって向き合ったということだ。
 シエタの旅行はその爪痕を渡るような、けっして安全とは言いがたいものだった。
 メーヴェの親戚がイェナの同行によい顔をしなかった理由も、そこにある。
 竜たちは、本気になれば人など十把一絡げに殺してしまう生き物だ。そしてキャリアはその宿主で、彼らを連れ歩いていることもすくなくない。つまるところ爆弾を抱えて歩いているようなものなので、アドラ側から国境に近づくのはリスクがある。イェナは契約した竜を持たないが、そんなことは(同じキャリアと竜を除いて)誰にもわからない。色眼鏡で紫の目を隠していても、それを外されてしまえば結果は同じだ。
 ――とにもかくにも、よろしくない。
 そんなことを露も気にしなかったはずの母は、イェナに向かっていろいろな話をした。
 メーヴェとユーレの首都グライトを結ぶ広野はどんなに険しいか。そこではどんな植物がどんな相を成しているか。あとはグライトの運河について。田舎の割に文明的な生活ができているのは、あれに依るところが半分を占めるはずだ、とシエタは言った。残り半分弱は沿岸の資源を掘り起こすための巨大なクレーンによるものだろう、とも。
 
         ◆
 
「ユーレにもクレーンがあるんですね。ナハティガルのひとたちが興味津々だったので、手作業で引き上げしてるのかと思ったりしたんですけど……」
 夜半、ベッドに潜り込んだイェナはそんなことをささやいた。
 クレーンによる荷物の引き上げ元は、海底に沈んだ遺構である。神の依り代を作ったとさえ言われる、眉唾物の噂の出所。
「ナハティガル」
 てっきり海底資源の話に食いついてくるかと思った水竜は、闇のなかで言葉の一部を繰り返した。応じて、イェナはそっとシーツに地図を描く。
「軍事都市って呼ばれてる町です。ふだんは内陸にあるファルケとにらみ合ってるんですけど……」
「ファルケ」
「大陸連合協議院……って言ってわかるかな。この大陸にある国は、みんな仲良くしましょうねっていう、学校の委員会みたいなのの本山がある国です」
 ふぅん、と水竜は低い声を発した。
 それきり彼女は夜闇のなかで黙り込んでしまったので、果たしてわかっているのかいないのか、イェナには判断がつかなくなった。
 いよいよ口を開こうかと思ったそのとき、ようやくわずかに水竜が身動ぐ気配がした。
 彼女は先ほどよりイェナの近くに頭を寄せて、
「お前のたとえはよくわからんが、ファルケとナハティガルとやらについてはわかった。続けておくれ」
 と言う。
 イェナはそっとうなずくと、声を頼りに水竜のほうに顔を向けた。
 暗がりのなかで、彼女がどんな顔をしているかは杳として知れない。――それがけっして表情のことばかりでないのが、竜と呼ばれる存在の不可思議な部分だった。
 すくなくとも、イェナはそう思う。
 竜たちは人の姿を普段使いすることが多いが、人の姿は「本物」ではない。竜たちはおおむね別の生き物と共通項のすくない「竜としての姿」を持っていて、必要に応じてそちらの姿を取ることもある。あるいは必要に応じて「人の姿」を取る者もいて、そもそも姿を見せることすら稀な者もいる。竜たちはそう言った意味においても、とても自由だ。
 だからこそイェナは、話し相手の姿形を求めなかった。ただすこしだけ目を細め、言葉の続きを選び取る。
「クレーンで引き揚げても尽きないくらいなら、ユーレの沿岸にはたくさん遺物が沈んでるんだろうなって思ったんです。ユーレはご存知ですか?」
 頭を振る気配。
「ユーレはドロッセルから見るとメーヴェの先の半島にある国です。海に三方を囲まれているので、そのぶん領海も多いですから……」
「あのあたりか。その事実を踏まえてもそこは色々沈んでいるよ。おまえたちの概念からすれば、たぶん多いほうなのだと思う」
 竜の言葉に、イェナはそっと目を閉じた。まなうらには外と同じ濃度の闇が広がる。けれどもこちらは外とはちがい、明るい色の碧海を臨む暗闇だ。
 空想上の海はメーヴェから見る海とよく似た色をしている。
 それを除いて、イェナはユーレの景色についてをよく知らない。
「遺物のなかでも特に大きなものが沈んでいると、そこにいろんな生き物が集まってくるんですってね。それはちょっと見てみたかったような気がします」
「気がします?」
「……わたしはたぶんユーレには行けないので、気がするだけ。行けないのがわかっているから、高望みはしないことにしてるんです」
 水竜はしばらく沈黙していた。ベッドから離れた場所でなにかが床に落ちる音を聞いた気がしたが、イェナは努めて無視をした。よしんば実際に音がしたとして、聞いたのはイェナをおいてほかにない。ならば、物音などないも同じだ。
 そうやって振る舞うことに対して、イェナはすでに慣れ切っている。
「おまえは海が好きなのだったな」
 やがてかけられた声は、息がかかるほどに近くから。
 けれどもほんとうに吐息を感じることはない。実態を――己が依り代を持たない竜に特有の、曖昧な在り方。そうですよと首を縦に振っても、互いの額が当たることはない。
「だが、わたしと契約をする気はない」
「そうです。怒られちゃいますから」
「ならばよかった。わたしもおまえと契約をするつもりはないからな」
 ふと、なにかが微笑んだ気配がした。
「わたしはキャリアのいいように使われることなど御免蒙る。今も、昔も、これからも」
「……ひょっとして、契約をなさったことがない?」
 おかしな竜だ。すくなくとも、イェナが会ったことのあるどんな竜ともちがう。
 なにしろ、竜たちの生は第二の生だ。それを得るには目的がある。生まれ直した目的を達するにせよ、ただ自侭に生きることを選んだにせよ、キャリアとの契約がすべての足がかりになるのだと思っていたが――
 そんなこともあるのか、とイェナは思った。竜たちの生はとても長いから、ちょっとのつもりで遊んでいるのかも知れない。そこにキャリアが不要であれば、ぎょっとするほどひとりで野良竜をしていることもあるだろう。
 そう納得して言葉を控える程度には、今のイェナは眠かった。
 緩慢にまばたきをしてから、
「ちょっともったいないですね」
 とだけ返しておく。
「もったいない」
「海にお詳しいようですから。海底資源の研究をなさっている機関はたくさんあるし、人によってはとっても契約したいんじゃないかなって。……まぁ、適当な想像なんですけど」
 言ってイェナは毛布を被り直した。厚い生地の向こうで、水竜が溜息を模す仕草をしたのがよくわかった。
 続くささやきを枕に目を閉じる。
 
 やがて差し込む朝日に瞼を開いたとき、水竜の姿はどこにもなかった。