500 Hz

 メーヴェを「田舎」と呼び、ユーレを「びっくりするほど田舎」とのたまうシエタは、彼女いわく大都会に居を構えている。その大都会こそ祖ドラクマの直系の子孫のお膝元、商業都市ドロッセルだ。
 久方ぶりに帰り着いた我が家の壁は、メーヴェの美しい白とはおよそかけ離れた黒灰色をしている。泥のようなものを塗って作った工法そのものは同じはずなのに、ふたつは似ても似つかない。
 打ちっ放しのコンクリートに囲まれた自室に入ると、そこには目を焼くほどに明るいオレンジの生き物がいる。それは入ってきたイェナの姿を認めるや否や、
「おかえり」
 と低い男の声を発した。
「ただいま、辰砂」
 辰砂はあまり大きな生き物ではない。学校の級友が飼っている(らしい)トカゲと同じくらいのサイズをしているし、見た目もトカゲに似ている。普通のトカゲとのちがいは背中に翼があるか否かだけ。
 机の上で頭をもたげた辰砂は、竜である。
 お父さんの火竜だ。イェナとは契約していない。それから今は、お父さんとも。
 辰砂はここ十数年キャリアを持たない自称半野良の竜である。イェナの家に居座ってはいるものの、その姿はイェナ以外の誰にも認識されない。かといってイェナに契約を求めることもしない辰砂は、この家にとってなんの益にも害にもならない生き物である。
「して、グライトはどんな塩梅だった?」
 辰砂は細く短い四肢を伸ばし、翼を打ってベッドに移る。その横に旅の荷物を放り投げてから、イェナはすこしだけ肩をすくめた。
「行けなかった」
「グライトにか?」
「というか、ユーレに。わたしは行かないほうがいいってさ」
「とするとあの女は骨折り損だな。その点では満足だが」
 一度目の生を生きる人間がそうであるように、竜にも情やこだわりがある。その最たるものの一例が、みずからの依り代となるキャリアの選び方だ。
 竜とキャリアの契りは結ぶときに若干の合意が必要なくらいで、あまり強制力のある親密な関係ではない。だというのに、竜の一部はキャリアの選び方にうるさい。あるいは、一度選んだキャリアに対し、並々ならぬ情を持つ。そういう竜は往々にして、今は亡きキャリアに対しても義理立てをする。
 火竜の辰砂もその多分には漏れず、依り代であったヨシュアの亡きあと、娘であるイェナのそばにくっついている。そんな塩梅であるので、辰砂は今回の旅行にはたくさん言いたいことがあるようだった。
「止めたのはメーヴェの人間か? どうしておまえは主張しなかった? 儂の意見だと言えばどんなに馬鹿でも黙っただろうに!」
 辰砂は鞄を蹴る真似をする。実体を持たない彼は鞄になんの影響も及ぼさない(正しくは及ぼせない)のだが、蹴りたい気分であったのだろう。つまりは怒っている。
 その証左として、辰砂は鞄を蹴るのをやめない。
「やめてよね」
 とおざなりに彼の所業を諌めたイェナは、旅行鞄の蓋を開いた。
 なかから地味な色の服と下着を引っ張り出し、それを抱えて部屋を出る。
 洗濯機のなかにはすでにシエタの服が入っていた。上から自分の服を投げ込み、スイッチを入れれば洗濯が始まる。乾かすまで全自動だ。
 水の流れる音をバックに部屋へ戻ると、ぶすくれた辰砂が旅行鞄のなかに入っていた。辰砂は狭いところが好きなのだ。ひょっとすると前世は猫だったのかもしれない。義理堅さは犬のようだが、竜たちは前世のすべてを引き継ぐわけではないと聞く。
「死後サプレマの赦しを得ることだけが、おまえの父の悲願であったのだぞ」
「それはまぁ、すごくわかってるつもりだけど。……やっぱりサプレマは怖いよ」
 鞄の持ち手を引っ張ると、辰砂はしぶしぶ鞄から這い出した。鱗のある尾を振る彼の足許で、ベッドは皺のひとつも寄せていない。
 その姿に背を向けて、イェナは深く息を吸った。
「辰砂だったら怖くないの?」
 ちいさな火竜は答えなかった。けれども怖くないなどとは言えないはずだ。イェナはそれを知っている。――辰砂の前の主人であったヨシュアは前線に出向き、サプレマの攻撃に巻き込まれて命を落とした。
 辰砂はあわやというところで契約を切られ、紙一重のところで逃げ果せた竜である。
 おかげで、辰砂はこういう話をするといつでも黙り込んでしまう。イェナはその沈黙に安堵しつつ、椅子を引いて腰を下ろした。
 端末の電源を入れると、耳慣れた音を立てて冷却ファンが回り始める。
 そうして起動した端末は、すでにドロッセルのネットワークに接続済みだ。文字列を入力してボタンを押せば、広大な情報の海から必要な情報を浚ってくる。
「なにを調べている?」
 机の上に居場所を移した辰砂が、ついと首をかしげてみせた。
 ディスプレイには色の薄ぼんやりした写真のデータが並んでいる。くすんだ、というより全体的に黄味が強い。古い画像をデータ化したものに特有の色彩である。
 イェナは窓のブラインドが閉じていることを確認してから、かけていた色眼鏡を外して脇に置いた。視界から薄茶色のレンズが消え失せると、世界は急にコントラストを強める。古い写真を見るようなときは、このほうがずっと見やすかった。
 けれどもディスプレイに映った写真データ相手では状況が異なる。液晶のバックライトはぎらついて目に痛い。あわてて輝度を下げてから、イェナは改めて行儀よく並んだ写真データを眺め見た。
「ユーレだよ」
 画像検索の結果からうかがえる町の景色は、ドロッセルには似ていない。シエタが口にしたように、あるいはイェナが想像していたように、カテゴリー的にはメーヴェに近い。けれどもまったくメーヴェと同じではなくて、建物の壁は砂に近い色彩をしている。
 半島を占めるという割に、海の写真はあまり多くなかった。母を驚かせた城の姿も枚数が多くはない。そのあたりから察するに、ユーレという国は思ったよりも広いようだ。
 イェナはすこし迷って、検索キーワードをグライトに変更する。ふたたび検索ボタンを押すと、城の画像がいくらか増えた。全体的な高さから鑑みるに、城よりも王宮と呼ぶほうがしっくりくる気がした。
 スクロールを使って画像の海を泳ぐことしばし、イェナは検索キーワードの追加を決定する。区切り記号をひとつ挟んで、海。
 祈るような気持ちで検索ボタンを押す。わずかなローディングタイムを挟んでから、ようやく目的の画像が画面に並んだ。
 青い光を放ち始めたディスプレイの姿を見つめて、辰砂が翼を震わせる。
「ろくでもないものを検索するな」
 辰砂の翼は鳥のようであり、同時に虫のようでもあった。
 羽毛のかわりに並んでいるのはカルサイトに似た薄片で、全体的には透けている。ディスプレイから放たれる光が複雑に拡散され、色としては虹のよう。
「ろくでもないっていうけど、お父さんってこういうの好きだったんでしょ。お母さんに聞いたよ」
 辰砂は答えなかった。自分の旗色が悪くなると、この火竜はいつでもそうだ。しおしおと翼を畳んで机の隅に移動し、存在しないふりをする。こういうところも犬のようだが、彼はけっして自分の正体を語ろうとしない。
 だからこそあえて問い詰めるような真似はせず、イェナは机の上に頬杖をついた。ゆるく頭を軽く傾けながら、プログラムが等間隔に並べた画像を眺める。
 青い色彩はメーヴェで見たものによく似ていた。海岸線を共有し、同じ海に臨んでいる以上は当然の話だ。メーヴェの海ではないことを証明するのは、いくつかの画像に写り込んだクレーンだけ。
 ――ひとしきり画像を確認し終えたイェナは、みっつめのキーワードを入力した。
 グライト。海。生き物。
 入力を受けたプログラムは、火竜のように文句を言わない。ほんのわずかにファンの回転数を上げ、それから色とりどりの画像をディスプレイに映し出す。青の総量は減った。
「魚、魚、魚……」
 海中写真のようなものはない。
 かわりに生き物の姿を呈しているのは、市場と思しき場所に並んだものたち。正確には生き物だったものと呼ぶほうが正しいだろう。あるいはそのうちユーレの――グライトの食卓に並ぶかもしれないもの。
「魚じゃない」
 なかには八本の触手を備えた生き物の写真もある。笊の上でぐてりと触手を伸ばして広がる姿は、魚と呼んでやるには抵抗があった。
 イェナはとんと机の隅を指先で叩き、拗ねて丸まった火竜を呼んだ。
「辰砂、これがなにか知っている?」
「知らん」
「お父さんも知らなかったの?」
「……あのな、イェナ」
 辰砂は頭を上げ、ぐるぐると不快そうに喉を鳴らした。
「たしかに儂らのようなものとおまえたちは意識のある程度を共有するが、知識のすべてを共有するわけではないのだ。何回言えばわかるのだ」
 ジオエレメンツ。――竜たちの古い呼び名だ。正確にはイェナたちが言う「竜」とは若干ニュアンスが異なるようだが、その具体的な意味はよくわからない。
 ただひとつ確実に言えるのは、あえてその呼称でみずからを称するとき、辰砂が腹に一物も二物も抱えているということだけである。――つまりは高確率で面倒なことになる。さながら地雷を踏み抜いてしまったようなものだ。
 やってしまったな、とイェナは思った。かといえひとたび吐いてしまった言葉を飲み込む術もなし。イェナは椅子の上で姿勢を正し、辰砂の説教を聞き流す用意をする。
 けれども、ほんとうに辰砂の説教を聞く羽目にはならなかった。
 なにしろ彼は未契約の竜、ひいてはキャリア以外の感覚に捉えられることはない。
 彼の説教が聞こえないシエタは、たとえそのさなかであっても娘を呼ぶことに遠慮をしない。さらに彼女はこの家の主でもある。娘であるイェナには、彼女の声に応えないという選択肢は端から用意されていなかった。
 おかげさまで、偉大なる火竜にしてジオエレメンツである辰砂は、この家では一番か弱い生き物だ。彼を憐れむ心はあれど、イェナはそれを口に出さない。

「ちょっとやだぁ、イェナ、眼鏡は?」
 リビングに顔を出したイェナを見て早々、シエタは指先でこめかみのあたりを摘んでみせた。眼鏡の蔓をつかむ真似だ。
 母の仕草を真似したイェナは、あるべき感触がないことを悟って悲鳴を上げた。
 あわてて自室へ駆け戻る。たいそう呆れた顔をした辰砂には構わず、眼鏡をつかんでかけ直した。黄味を帯びた視界が戻ってくる。
 そうしてふたたびリビングに顔を出すと、シエタは呆れた様子で肩を落とした。
「家のなかならちょっとぐらい平気だけどね。家を出たら気をつけなさいよぉ」
 うん、とうなずく。ついで見やったシエタの顔は、先刻よりメリハリが薄れてすこしぼんやりとしている。さながら色眼鏡をかける前後のディスプレイの画像のようだ。けれども実際のところ、シエタの顔がかわって見える原因は色眼鏡ではない。
 それは単に化粧を落としているからだと、イェナはよく知っていた。バリバリのアイラインも、血色を補うチークとルージュもなし。そうやって化粧抜きで見る母の顔は、年相応の女に見える。リビングのソファーに埋もれるちいさな体と相俟って、どこか御しやすそうな印象さえある。
「それでね、今見たらもんのすごい数メールが溜まっちゃってて。なんかプログラムにバグがありそうって話なのよね。このあいだのほら、代休が溜まりまくっちゃった例の案件のやつなんだけど」
「それでご飯のことで相談がある、と」
「まさにそのとおり。疲れてるならデリバリーでもいいけど……」
「できればデリバリーじゃない家のご飯が食べたいのね。わかった」
 ダイニングキッチンにあるあり従いの素材で食事を拵えるのは、イェナの得意とするところだ。食材配達を頼んでいないから栄養面までは気を回せないものの、とりあえず舌と腹を満足させることはできるだろう。不調が出るほど栄養が足りない事態になれば、サプリメントでも飲めばいいのである。
 イェナが物心ついたそのときから、シエタはそういった面で「柔軟」だ。彼女にとっての娘の食卓を守ることは、冷蔵庫および薬棚の中身を切らさないことと同義である。
 買い物の手間を減らす巨大な冷蔵庫を開くと、なかには卵が残っていた。冷凍室にはかちかちに凍ったパンが入っていて、野菜室には半分干からびかけた野菜もある。――こんなことならメーヴェでなにか買ってくるべきだった、とイェナは思った。あそこの市場は(ちらりとうかがった限りでは)新鮮な食材が並んでいた。
 とはいえ後悔が先に立つはずもなし、イェナは取り出した野菜を刻む作業に没頭する。刻んだ野菜を炒めて水を注ぎ、インスタントのスープの素を入れて蓋をする。
「お父さんはさ」
 そうしてソファーのほうを振り向くと、シエタはうんと声を発した。
 彼女の鳶色の目は逸れることなく膝上の端末を見据えている。どうやら食事ができあがるまで(それから食事を食べ終えるまで)リビングを離れるつもりはないようだった。
 その事実を胸に留めて、イェナは残りの言葉を継ぐ。
「こうしてお母さんにご飯とか作ってくれたの?」
「ううん、全然。あの人ってばわたしより生活力がなくってねぇ。そういうのはだいたい辰砂任せだったのよね」
 イェナは首をかしげた。
「辰砂? あの辰砂?」
 そうなのよ、とシエタは笑う。あの辰砂とは、今のイェナの部屋でぶすくれている火竜のことだ。――お父さんの火竜。シエタにとっては夫と契っていた火竜である。
 だから、シエタは辰砂を知っている。彼女の目に竜は見えないが、彼女は辰砂がこの家にいることも理解している。
 彼女はちらとイェナの横を見やってから、手招きの仕草をしてみせた。イェナは鍋をかけた火を弱めると、素直に母の横へと腰を下ろした。
「辰砂はずーっとお父さんの家にいた竜の一頭だから、それくらいはできるんですって。それで生活力がダメダメなお父さんについてくることになったんだって、付き合い出したときに言ってたわ」
「たしか二頭いたんだよね、お父さんの実家の竜は」
 キャリアは基本的に突然生まれてくるものではない。キャリアの力は血縁によって引き継がれるものだ。それぞれの家の祖となったキャリアは複数いるのだといい、血統ごとに明確な力の優劣もある。
 それは往々にして、ひとりのキャリアにつく竜の力の総量によって表されるらしい。竜たちにも力の優劣があり、弱い竜であればあるほど多く契約できるので、頭数は参考にならないのだ――と辰砂から聞いた。
 そのなかでヨシュアの家は永らく「ぎりぎり二頭」の家で、ヨシュアはついに「伝家の竜に限っては一頭限り」として生まれたキャリアだったらしい。それを語るバリトンの声を思い出しながら、イェナはすと首をかしげた。
「もう一頭はどこに行ったのか、お母さんは知ってる?」
「たしかナハティガルに残って別のキャリアを探したんじゃなかったかしら。辰砂と銀朱は両方、ナハティガルの爛様に惚れてるんだって話だったし」
「……お父さんから聞いたの?」
「ええ、そうよ。竜とキャリアはお互い考えてることが筒抜けだって言うじゃない?」
 そう言ってシエタは唇の端を持ち上げた。
「きっと辰砂もヨシュアがわたしに惚れてるんだって知ってたと思うと、なんだかずいぶんおかしな気がするわ」
 イェナもまた微笑みを返した。たしかにひどくおかしな気がしてしまうのは、イェナが契約竜を持たない野良キャリアであるからだろう。竜とキャリアは精神の一部を共有すると聞くが、イェナにはまだその感覚がわからない。
 イェナにさえそうなのだから、人間であるシエタには一入だろう。
 彼女はそっと端末のディスプレイを消すと、端末そのものを脇に避けた。空いた両腕で力強くイェナを抱く。
「あなたがユーレに行けなかったこと、辰砂には話した?」
「話したよ。あんまり本気では怒ってなかったように見えたけど」
 イェナもまた母の細い体を抱いた。力を入れ過ぎないよう慎重に。
 焦げ茶色の髪からは石鹸の香りがする。
 ――辰砂はお父さんの竜で、お母さんにとってはお父さんの一部だ。イェナが辰砂と契約すれば、お母さんは今よりもたくさんお父さんのことを聞けるのだろう。それを思うと、視界を覆う色眼鏡が煩わしいような気がする。
 でも、イェナは眼鏡を外さなかった。ただひとつだけお母さんの背中を叩いて、それから細い腕をほどき、コンロのほうに歩いていく。くったりと煮えた野菜の上から入れる冷凍パンは、久々に指先の力で引きちぎった。

 その夜、イェナは久々に本棚から本を引っ張り出した。これはイェナが誰かから買い与えられたものではなく、お父さんの遺品である。
 ――「遺物から成る珊瑚礁とそれを取り巻く生物相について」。
 この本を買い求めたとき、お父さんはどのような顔をしていたのだろう。目を閉じて想像してみるが、なんだか落書きのような顔しか浮かんでこない。そもそもイェナはお父さんの顔を知らないのだ。
「あの薄気味の悪い生き物についてか?」
 すっかり怒りの冷めた辰砂は、気安い様子で机の上で頭をもたげた。ベッドの縁に腰を下ろし、イェナはひとつうなずいて返す。
「おまえの母親は生物種自動同定ソフトウェアの製造責任者だっただろう。おまえもテスト用のものを借り受けているのではなかったか?」
「あれはまだ学習段階だから。最初からこういう生き物っていう理想的な形じゃないと、ほとんど判別できなくて、馬鹿みたいな答えが出るんだよね」
 言ってイェナは机の上に手を伸ばした。スリープ状態になっていた端末を叩き起こし、くだんのソフトウェアを立ち上げる。あらかじめダウンロードしておいた八本触手の生き物の画像を読み込ませると、鈍い音を立てて冷却ファンが回り始めた。
 謎の生き物の画像を読み込ませると、ソフトウェアは端末内の電子的な活動領域をがりがり食べる。おかげで端末の電子的な部分は思い切り加熱され、冷却ファンも全開になる。それでも冷却し切れなかった熱量が背面のアルミ部分から放射され、端末の筐体自体が熱を帯びる。
 やがて画面に浮かび上がったのは「ヒトデ」という文字だった。その下には目視確認のための、赤いヒトデの画像が並べられている。
 ほらねとイェナは溜息をついた。
 一方の辰砂は首をかしげた。
「さっぱり差がわからん」
 とまで言う。――ヒトデと謎の生き物は、体の作りからして相当に異なるはずだが。
「そもそも、おまえはどうしてこの生き物がヒトデではないとわかる?」
 鳥の蹴爪に似た前足が、とんと画面を叩いたような気がした。仕草としてはたしかに叩いたはずだが、イェナの鼓膜はなんの音も捉えなかった。
 その事実に目を細めてから、イェナは手許の本に向き直る。
「わたし、ヒトデには詳しいのよ。お父さんが遺してくれた本でたくさん見たから」
 ウミウシ、ウミヘビ、イソギンチャク、クラゲ。自力で探し出した動物はどれもこれも写真の生き物とは異なるように思える。辛うじて探し出したイカの項目は十本足ばかりで、八本足はいない。一匹だけいた九本足の個体も、天敵に攻撃されて足を引きちぎられた傷病個体に過ぎず、そういう種類ではないようだった。
 諦めて本を閉じたイェナは、寝間着に着替えてベッドに潜った。調べものがうまく行かなかったときに特有のもやもやが、電気を消した部屋にわだかまっているような気がした。
 そして、もし、と思う。
 もしあの水竜であったなら、あの生物の名前もわかるのだろうか。――母なる海の秘密にさえ明るいと自称した、あの竜ならば。
 こんなことなら契約をしておけばよかったのかもしれない。でも、彼女は契約をするつもりがないとも言っていた。イェナに限らず、ほかのいかなるキャリアとも。
 なにしろわたしはこの世界に未練がないので、と。
『それでも求める知識があるのなら、まずは竜の歌を求めなさい』
 見渡すことのできない闇のなか、娘は声なき声を聞いたような気がした。

 竜の歌、と呼ばれるものがある。正しくは韻文律、もしくはコード。
 それを唱えることで竜や、竜に類するものに干渉しうるという、一種の言語だ。その文法は複雑であるが、シエタはそれをある程度読み書きすることができる。
 もっともそれは辞書片手に(正確にはデータベースに接続した端末片手に)ちょっとした短文を、という程度の話だ。
 むかしほんのすこしかじったことがあって、基礎文法だけならわかるのだという。
 その証左に、シエタはみずから描いた文章と諳んじた歌を使い、辰砂という火竜に意を伝えることができる。イェナも同じことができるが、こちらは別段文法を理解しているわけではない。イェナにとっての竜の歌とは、辞書データを見ても文字の形すらつかめない、複雑怪奇な暗号に過ぎなかった。
 ソースコードみたいなものよと教えてくれた母の言葉は、学習の役には立たずじまい。
 ――そんなものを学び直すくらいなら、力技で解決するほうが数倍楽だ。否、零になにをかけても数は増えないから、プラスして百くらい。基準値としては学校の宿題が二十、日々の家事がまとめて五。それから外出が一。
 イェナは、外出が苦手だ。
「日傘、アームカバー、遮光グラス、紫外線カットマスク、全部よし」
 なにしろイェナは光線過敏症ということになっている。建物の窓ガラスがぎらぎらと太陽光を反射し合うドロッセル市町は、イェナにとって地獄に等しい。ほんとうは必要のない重武装をして町を歩くのは、砂漠に近いドロッセルにおいては自殺行為そのものだ。
 だというのに、ライブラリーは日が落ちるころには閉まってしまう。なのでイェナは決死の覚悟を決め、白昼のドロッセル市街へと繰り出したのである。
 日差しの柔らかい早朝を選んだものの、重装備のおかげで恩恵は感じられなかった。
 キャリアは人間より頑丈にできているらしいが、暑いものは暑い。髄液が沸騰する音が聞こえてきそうだ。あるいはもう沸騰していて、キャリアであるおかげで死ぬこともできないまま、ほんとうのほんとうに煮え立つ音を聞いているのかも――
 などと思ったのも束の間、ライブラリーの扉が見えた。ガラスのそれを潜ると嘘のように涼しい。
「こんにちは、大変ね」
 手袋をはめた手で入館証を差し出すと、受付のお姉さんはにこりと笑った。
「勉強熱心なのはいいけれど、あまり無理はしないでね。高い書架に登るつもりがあるんなら、すこし休んでからがいいと思うわ」
 お姉さんは顔なじみだ。イェナがどれだけ重装備をしていても、どれだけ汗だくの姿をしていても、文句のひとつも言うことはない。
 その優しい態度に安心しながら、イェナはマスクを外した。ついでに手袋とアームカバーも外し、お姉さんの手から入館証を返してもらう。
「返却忘れはありません。予約の本が返ってきているけれど、今日はそれかしら?」
「今日はちょっと調べたいことがあって……本はあとで貸出手続きをさせてください」
 うなずいたお姉さんに背を向け、入館証をリーダーにかざす。ちいさな電子音がした。
 ドロッセルに限らず、アドラの主要な都市は通信網によって繋がり合い、日々大量のデータがやりとりされている。そのなかであえて古い形式――書籍のような固定化されたデータを残しておくことが、ライブラリーの大切な役割であるとされる。
 実際はどうか知らないが、すくなくともシエタはそう言う。
 ネットワークにあるデータを水にたとえるなら、そこから切り離されたライブラリー所蔵の品々は石のようなものだ。流動せず、変遷もしない。さらには自動解析や予測ナントカが入り込む余地が狭く、ノイズのすくない情報が入手できる。古い宗教や政治の話も、編纂された当時の視点で見られるのがライブラリーのよいところだ。
 アドラの宗教は燃やし尽くして従えることを嘉するが、その業火がここまで及ばなくてよかった、と思う。
 おかげさまで、イェナは謎の生物についてを調べることができる。
 夜半に目が覚めてしまったイェナは、ずいぶん長い時間をかけて例のソフトウェアと格闘した。ネットワーク上からヒトデというヒトデの画像を集め、ヒトデヒトデヒトデと入力し続けた。そうしてヒトデを同定する精度を上げてやったが、結果として例の生物はイカとして認定を受けた。かわりに検索エンジンはついにヒトデの種の同定に成功し、シエタをおおいに喜ばせたのだった。
 閑話休題。
 イェナは馴染みの書架から、無脊椎動物についての本を何冊か選んだ。遮光性の強い色眼鏡をいつものものに換え、そっと本のページをめくる。
 そうして本を読むこと数時間。海の青さにすっかり目が慣れたころ、閉館時間がやってくる。イェナは予約していた図鑑を借りて、ライブラリーを後にした。
 家に帰って重装備を解き、シャワーを浴びる。
 在宅勤務のシエタは、そんな娘の様子に注意を払わなかった。リビングで携帯用端末に向き合ったまま、ひとことも声を発さない。いつものことだ。
 光線過敏症という病気は、イェナにとってはみずからの目を隠す鎧である。それを用意したのはシエタで、着ることにしたのはイェナだ。合意の上のことだから、今更かわいそうだのなんだのとは言わない。それが親子の取り決めである。
 紫の目を――キャリアであることを隠すなどと、絶えず愚痴をこぼしていた祖父は、もうこの家にいない。
「ただいま、辰砂」
 キャリアであるという事実を隠すことについて、辰砂もまたなにも言わない。
 彼は机の上でのそりと身体を起こすと、いつものように「おかえり」と言った。
 彼が定位置にした机の前に座り込み、イェナは端末の電源を入れる。図鑑の入った鞄を下ろすと、ひどく鈍い音がした。こういう重いものを運ぶときにだけ、イェナは自分がキャリアであるという事実に感謝する。
「今日はすこし打ち込みの作業をするつもり。なので……」
「万が一おまえを訪ねてくる者があっても、追い返すさ。そのあたりはレラシオン家の守護竜に任せておけ」
 レラシオンという家は、ナハティガルにあるという父の生家だ。今ではもう後継となるべき人間がおらず、家付きであった竜さえ離散してしまった。
 イェナは生まれてこの方レラシオンの人間であったことはないので、それを可哀想だと思うことはあれども、悲しいことだとは思わなかった。なぜなら、イェナは父の顔を知らないのである。
 ――イェナが生まれたら籍を入れるはずだった父は、国境の小競り合いから帰ってくることはなかった。
 そんな父がこの家に残していった本のデータは、すでにソフトウェアが使うデータベースにすべて打ち込んである。シエタとイェナで手分けをしてなお、六歳の夏休みをフルに使い切る、ある種の一大事業だった。
 そのあとシエタはこのソフトウェアよりも優先すべき案件が生まれ、機械的な生物種同定システムの開発は、ほぼ完全に凍結されている。今ではイェナがライブラリーのデータを入力し、自分の遊びに使うのがせいぜいだ。
「その図鑑に、あれはいそうか?」
「まだわかんないけど…………あ、いた。悪魔の魚だって」
「あくまのさかな」
 辰砂は目を眇めると、イェナが開いたページをのぞき込んだ。
「似ているかもしれないが、触手の数だけではないか? 儂には共通点がよくわからん」
「足に吸盤があるって」
「おまえが見つけてきたあのピンボケ画像で吸盤の有無がわかるか?」
「さっぱり。あとは口からなにか吐くらしいけど――悪魔の魚じゃなくてヒトデじゃないかな、これ」
「なぜそれを基準にヒトデだと思う」
「ヒトデっていうか、棘皮動物っていうほうが妥当かな。ヒトデの仲間は、いざというときに内臓を吐き出して威嚇するんだよ」
 息を呑む音。辰砂はちいさな前足で尾を抱えた。
 彼の尾は普通のトカゲと比べてとても長い。胴体から離れるほど鱗の色が抜け、先端はほとんど透明に近い。けれどものぞき込んでも肉や神経は見えないから、やはり辰砂は不思議な生きもの――竜であるのだと、イェナは都度認識する。
「トカゲとちがって綺麗に再生するんだよ」
「どちらも潔くないのはたしかだ」
 辰砂の声は唸るようだった。イェナは肩をすくめる。
「でも竜だって、もしほんとうに死ぬなら竜の虫を残せるんでしょう? あの、いろんな姿になれるちいさいやつ」
「あれとトカゲの尻尾をいっしょにするな。それから、儂は死ぬときでも竜の虫などけっして遺さん。潔く、綺麗さっぱり、この世界から消えてなくなる。灰も残さずな」
 竜の虫は、竜によく似た生きものだ。普通の人間には見えないが、竜よりも弱い。もしも運良く見ることが叶い、それを縛る術を持つならば、人でも契約を結ぶことができる。
 ただし知能は微妙なところで、竜のように(あるいは人のように)べらべら喋るという話は寡聞にして聞かない。おかげでその正体はわからず、死に直面した竜が切り離した体の一部であるという説もあるが、事実は杳として知れぬままだ。たぶんその説が事実で、作った竜はみな死んでしまったのだろうな、とイェナは思っている。
 竜の虫を切り離すことを優先し、そのあいだにきれいさっぱり。
 それについて思うとき、イェナはいつもお父さんのことを考える。
 ――ヨシュアは迫り来る水から逃れるために、辰砂の力を使わなかった。むしろ辰砂を残すことを優先し、彼との契約を一方的に解除して、仲間を抱えて逃げようとした。それを勇敢な最期だったと語ったのは、砂地に投げ出されて生き延びたくだんの仲間だった。
 だから、辰砂はお父さんにとっての竜の虫のようなものだ。
 彼がほんとうになにを残したかったかについて、最期の時を共有しなかった辰砂はなにも知らないという。彼の口にするヨシュアの願いは推定と憶測によって形作られ、きっとシエタはそれを本気にしていない。
「辰砂はそうやって死ぬのが望み? 最初から?」
 端末のディスプレイは、いつの間にか輝度を落としている。
 長らく操作がなかったための、消費電力を低減するための措置だ。入力デバイスを操作すれば元に戻るが、イェナはそれをしなかった。
 かわりに本の横に両手を重ね、ちいさなちいさな火竜を見る。
「どうだったかな」
 火竜は手放した尾を振り、ディスプレイに前足をついた。
「それより、データの入力が増えたのだろう? すこしくらい状況がかわってきたのではないか?」
 そうだったと応じて、イェナはふたたび例の画像をソフトウェアに読み込ませた。
 ファンの回転数はちょっとましになったような気がする。やがて表示された結果はばっちりストレートに「悪魔の魚」だった。にわかにイェナは辰砂の落胆を理解する。契約など必要なかった。辰砂の側もまたイェナの落胆を理解したことだろう。
 サンプルがすくない限り、知能とはなんの役にも立たない。天然物も、人工物も同じ。シエタの作ったシステムがまともな結果を出せないように、イェナもお父さんの意思を正しく引き継げている自覚がない。
 ――お父さんは、きっとこのソフトウェアを完成させたかったはずなのだ。脳裏にひるがえった考えを上書きするべく、イェナはいつもどおりの言葉を繰り返す。ユーレへの渡航を願っていたのはきっとそのせいで、サプレマに相見えたかったからではない。
 それならいつかお父さんの夢は叶うだろう。叶えたい、とイェナが想い続ける限りは。
 
 竜の虫を残さないと主張する竜と契約していたくせに、お父さんはもっと大きなものをこの世に残した。イェナと辰砂だ。
 どちらかがこの世から欠けていれば、イェナはお父さんのことを考えなくて済んだ。シエタも。ふたりともこの世にいないひとのことを考えて、うんうんと悩む必要はなかった。
 ――あの水竜に会いたいな、とイェナは思った。
 彼女ならこの問題を綺麗さっぱり洗い流して、イェナの目を前へ向けてくれただろう。あるいは灰と黒の焼け野原ではない、青く澄み渡ったどこかの海に。