440 Hz

「――というようなことがありまして、その水竜にふたたび会いたくて、わたしはアドラを出てきたわけです。あそこにいたら、いつかユーレを焼かなきゃいけないかもでしたし」
「焼ける気がいたっていうのがまたすごいよね、君。サプレマにビビってた人間の台詞だとは思えない」
 研究室のなかは閑散としている。海洋研究科のなかで唯一、海洋生物の研究室だけがいつでもこんな按配だ。
 ほかは――遺物を研究する博士が率いる研究室は、常に忙しそうに研究に勤しんでいるものだが。
「君がファルケに留学することについて、その辰砂とかいう火竜は納得してくれたの?」
 さっぱり論文を書いている気配を見せない院の先輩は、そんなことを言う。
 イェナはひとつうなずいて、机の上をよちよちと歩く生き物を指さした。見た目は明るいオレンジ色で、体型は柑橘類を思わせる球体である。
「してくれましたよ。だからこうして火の〈花虫〉もつけてくれて――……って先輩やめてください、その子たちは電源の要らないシュレッダーじゃないんですよ!」
 そこにナッツを刺したような嘴と目はひよこを思わせるが、彼らは正真正銘、れっきとした竜の虫だ。書き損じの書類に集まってもしょもしょ齧っていても、そういう習性のある鳥ではなく、ましてや書類を裁断する機械ではない。
 イェナはあわてて彼らの嘴から齧りかけの書類を奪い取ると、その中身を改めた。
「というかこれ、別に機密のある内容じゃないですよね……」
 記載内容はどこからどう見てもヒトデの落書きだ。色とりどりのペンで派手な柄がつけられているが、種類を同定するのは難しい。先輩の頭のなかに存在する新種だな、とイェナは当たりをつけた。
 ――そして、紙の皺を伸ばして裏紙入れに放り込む。
「それは機密情報だよ、イェナ。そいつが殺せる人間の数は、ナハティガルが誇る砲の一発に相当する。西棟の研究室に知られたら最後、現文明が滅びる結果になるかもしれない」
 先輩はそんなことをいう。彼の表情はいつになく神妙だった。
 しかしながら、その神妙さに騙されてはいけないことを、イェナはよく知っている。海生研、ないしはヒトデ研究室に属する唯一の院生である院生ロズは、神妙にしているときほど突拍子もない話をする。
 はいはいと答えたイェナは、拾い上げた紙を二枚に破り捨てた。破った紙を重ね、次は四枚に。それから八枚にし、十六枚にする――
「……怒っている?」
「いいえ、別に。これは次は先輩をこうするぞという実例を示しているだけなので、あしからず」
 いよいよ紙片を指先でつかめなくなってから、イェナははそれを屑篭に棄てた。キャリアとしての力を用いれば、重ねた紙など何枚あっても薄紙と大差ない。ためしたことはないものの、人間の手くらいなら指の股に沿ってびりびりと引き裂けるだろう。――あくまで推定の上では、であるけれど。
 ロズは首をすくめると、研究室に唯一の大テーブルに肘をついた。
「きみさあ、入ってきたころと比べると明るくなったなんて言われない?」
 受けて、イェナは頭を振った。
「研究室以外ではまだ眼鏡かコンタクトの民です。キャリアだってバレると面倒で」
 アドラにおいて、キャリアはすべからく火竜と契約を結ぶものだった。宗教的な側面を除き、その役割の際たるは、アドラの敵となるものを焼き尽くすことである。
 いっぽう、アドラを出ると、火竜のそのものが珍しかった。キャリアのほうはアドラと似た役割を求められることもあるが、もっとちがう役割を求められることもある。たとえば即物的な恵みをもたらすとか、竜を通じて智慧をもたらすとか、そういうこと。――大学の研究室においてはあらゆる実験の支援や、フィールドワークの諸々で重宝される。
 なかには進んでそれをこなすキャリアもいるが、イェナの場合はそうではない。この年まで竜と契約をしてこなかったイェナは、竜と契約を結ぶことを恐れ、キャリアらしい働きを避けてきた。
 それをよしとしてくれるこの研究室は、イェナにとっては居心地がいい。自分の花虫に紙を食べさせられることくらい、十分許容の範囲である。
 彼らの嘴から紙の切れ端を除いてやりつつ、イェナはあらためてロズの姿を見た。
「それで、ええと。なんの話でしたっけ」
「合同フィールドワークの話だったね。姉妹校との、というか姉妹校のフィールドワークに混ぜてもらうという感じだけど」
 言って、ロズは机の上に積まれたフォルダのひとつを手に取った。
 差し出されたそれを、イェナは特に躊躇することなく受け取る。
「ああ、そうでした。それで海の話から脱線したんでしたねえ」
「そうそう。アドラにも海があるって話、実際に聞くとインパクトがあるしさ。ドラクマ派のお膝元は、ほんとうに火竜しかいないってくらいだし」
「それを言ったら、内陸のファルケに水竜がいるのもおかしくありません? ――この話はほんとうにきりがないから、これで終わりにしますけど」
 広げたフォルダには数枚の紙が挟んである。ロズが言うとおり、ファルケの大学とほかの国に属する大学の合同行事のお知らせだ。行き先は相手先の国が所有する島嶼のひとつ。海のないファルケで海の研究を志す者であれば、喉から手が出るほどの大切な機会だ。
 下のほうには申込希望者向けの記入欄があり、ロズの名前が書き込まれている。
「院生。院生も希望制か……学生まで席が回ってきますかね。よしんば回ってきたとしてうちの研究室まで……」
「行けるよ。行ける。僕の助手ってことにすれば、なんとか無理矢理ねじ込めるはず」
 笑い含みのロズの声に、イェナは紫の目を上げる。いぶかるようなイェナの目に向け、ロズはひょいと手にしたものを示した。
「かわり、といってはなんなんだけど」
 それは借用書のたぐいでもなく、構内で稀に聞くその手の恋愛沙汰に関わる〈なにか〉でもなかった。むしろイェナにとっては、ひどく見覚えのある――
「竜の虫と、コードの知識を貸して欲しいんだ」
 ロズによって捕まえられた竜の虫はぴよぴよと鳴いた。応じてほかの救援に向かおうとするほかの花虫たちを、イェナはフォルダを使って制さなくてはならなかった。
 たったふたりのラボのなかは、にわかに騒然とした空気に満ちた。
「わたしが知っているコードって、ぜんぶお父さんの実家に伝わる秘伝なんです。ドラクマ派の聖職者の家系ですから、水の浮虫関係はさっぱりですよ」
「ここいる花虫でいいよ」
 ロズはにこりと笑う。
「むしろ花虫のほうがいい。夜は光ってよく目立つからね」
「夜は。光って」
 フォルダを使って掻き集めたひよこたちを抱きしめ、イェナはおもむろに目を眇めた。とてもとても嫌な予感がする。その正体をイェナが判じるより先に、ロズは微笑んだまま口を開いた。
「これでフナムシを追い立てて捕まえるんだ」
 ロズは大学院生だ。それも、この海洋生物研究室に唯一の。
 彼がここでのんべんだらりと院生をしていられるのは、それ相応の研究結果が認められてのことである。その研究結果が海洋のキーストーンとなる種を特定するためのものであったことを、イェナはようやく思い出した。
 浜辺の掃除屋として暮らすフナムシたちは、たしかにロズの研究対象のひとつだ。思い出したら怖気がしてきた。
「あと、たぶんダツやイカも捕まるなぁ。潮を被っても壊れたりしないのがすごくいい。完全防水ライトは高いし、うちの研究室はそんなに予算もないし……」
 奨学金を得てアドラを離れ、辰砂と離れてなお、キャリアであるという事実はイェナの頭痛の種だ。きっと一生こうなのだろうな、という自覚がある。竜も、竜の虫も、永久にイェナの生活から消えることはない。

 三年前、イェナは公費留学の席を得てアドラを出た。
 そうして国を出て第一に驚いたのは、外国の治世のあり方についてである。
 留学先であったファルケにおいて、竜たちはあまり政治に関わらない。ドラクマと契約していた三体の火竜が象徴として都市に君臨し、場合によっては都市の代表者として執政を行うアドラのほうが、ファルケから――否、諸外国から見れば異質なのだ。
 けれども、竜が人の営みに深く関わり合うことの是非について、答えはまだはっきりと出ていない。なのでアドラが責められる謂れはなく、ファルケが軽蔑される謂れもない。
 熾、燦、爛のどれか一体くらいは見たことがあるか、と聞かれたことはあるが、治世の是非は聞かれたことがない。そしてイェナ自身は、公費留学を含めた教育支援を惜しまない熾に感謝している。それで終わりだ。
 世の大半の人間にとって、政治などそんなものである。
「だいじょうぶ、なはずなんだけどね。念のため、念のため」
 熾か、彼女を従えるラケシス家、あるいは双方の気質の影響を受けたドロッセルという都市において、学問を志すことは難しくない。公費留学でもそれなりの生活の質が守られ、住居は大学寮の一人部屋が確保される。
 おかげさまで散らかり放題になった部屋のなかから、イェナは久々に公費留学関連の書類をまとめた箱を取り出した。
 箱には、留学生の細かな規則をまとめた冊子も入れられたままになっている。
 この冊子には、正確には仰々しい名称がついているのだが、ロズはこれを取扱説明書と呼ぶ。イェナもそれに倣って取扱説明書と呼んでいるので、この冊子は人生の大半を取扱説明書として過ごしてきた。
 そのなかで禁忌を並べたページを開き、内容を確認する。文面を精査するまでもなく、アドラからの渡航が禁じられた国への渡航は禁止、とでかでかと書いてあった。仔細を書いたページ数まで添えてあったので、イェナはありがたくページを捲る。
 こういう合理的なところは、よくも悪くもドロッセルで作られた文章らしい。そう思うとすこしだけ、あの灰色の町並みが懐かしかった。
 ――開いたページには、渡航の際にはアドラと該当国間の条約を参照し、研修等においては必要に応じて学生としての旅券を得ること、とある。取得手続きは学校を通じて行う必要があるようだ。
 フィールドワークの出発日までの日数を数え、イェナは必要な書類を漁り始めた。
 アドラ・ファルケ間にはそれなりの通信網があるが、どこまで速度が出るかはまったくの不明だ。すくなくとも、集中管理サーバーを通じて繋がり合うアドラの三都市より速く通じることはないだろう。ならばとにもかくにも仕事は早いほうがいい。
 この機会を逃してしまえば、次はいつ海に行けるかわからないのだ。
 なにしろ近年、アドラはまた急に不穏な動きを見せつつある。ファルケを含めたほかの国との国交が断絶すれば、イェナはアドラへ緊急送還されてしまうにちがいない。そこから見られる海は青くはなく、美しくもない海だ。
 それを海と呼んでやることなど、今のイェナにとっては、悪意に満ちた冗談のひとつにほかならない。
 
◆ 
  
 渡航資格を示す旅券は、比較的すぐに発行された。学生課でそれを受け取り、丁寧にフォルダに挟んで抱える。ついでにちいさな声で歌を口ずさみ、姿を隠した花虫たちに、フォルダの中身を食べないようにと厳命する。
 竜たちはとても巧みに竜の虫を操るが、イェナは一事が万事こんな感じだ。おかげさまで大学におけるイェナは、よく歌を口ずさむ陽気な学生の地位を得ている。
 重篤な光線過敏症の可哀想なお友達よりは数段ましな身分だ。アドラにいるときから欠かすことのできないサングラスも、学友たちはイェナの特色として扱ってくれている。
 気安く手を振る友人たちに手を振り返しながら、イェナは研究室への道を急いだ。今日は授業のある日だから、研究室には教授とロズが揃っているはずだ。ばらばらのふたりを捜してサインをもらうより、揃っているところを狙うほうが早いに決まっている。
 やがて踏み込んだ研究室棟は、昼間のほうが薄暗い。設備の保護だかなんだかで、照明を落としているからだ。開け放たれた窓から入る光ばかりがやけに明るい。
 光の帯のなかにはいつになく大量の埃が舞っていた。
 耳を澄ませばひとびとの動く音もする。イェナだけに限らず、フィールドワークを控えた学生は誰も彼もが忙しいのだ。今はまだ多少のんびり構えていてもよいけれど、イェナもこれから忙しくなる。
 サングラスの内側で目を瞬かせ、イェナは長い階段を足早に上った。
 イェナが所属する研究室は、研究棟の一番上に位置するが、さいわい登ることに苦労をした覚えはない。そりゃあおまえはキャリアだから、と恨めしげに語ったロズは、道半ばで遭難したことすらあるらしい。
 もしもそれが事実なら、イェナは亡き父への感謝を欠かすことはできないだろう。
 たった一基しかないエレベーターはいつでも満員で、よほどの運がなくては乗ることが叶わない。
 回り階段をぐるぐる回って最上階へ。そうしてなお息も切らさず扉を開くと、なかからは水死体でも見つけたような、やけに甲高い悲鳴がした。ロズの声だ。
「ほんとうに階段で来たよこの子ったら」
「階段で来たら駄目でしたか?」
 首をかしげながら室内へ踏み込む。
「全然。むしろ登って来てくれてよかったよ」
 喜色を含んだ返答は研究室の奥、いつもは使わないひとり用の机のあたりから。イェナがうかがい見ると、そこには予想どおりの人物が鎮座している。
 座り心地のよい革張り椅子に、せせこましく座った大男――研究室の主であるパヴェル教授だ。
 縦も横も、あいかわらず目の錯覚を疑うほどに大きい。彼が身動ぎするのに合わせて、見るからに立派な椅子がぎいぎいと軋みを上げた。
 去年の年末、研究棟の廊下の大掃除を賭けての椅子滑走距離競争(ほんとうにそういう名前だった)ではぶっちぎりの距離を稼いで優勝した椅子だったが、あのぶんでは今年の年末は望みが薄そうだ。競技椅子生終了。惜しい椅子を亡くした、とイェナは内心で思う。それを知ってか知らずか、パヴェルは腹を揺らして笑った。
「ちょうど運動をして来たところだし、君もなにか飲むかね」
「珈琲をいただきます。淹れますね」
 言ってイェナが机に荷物を置くのと入れちがいに、パヴェルは首を横に振った。
「ロズに淹れさせればいい。一杯も二杯も、そうかわらないでしょう」
「ええ、ええ、そうですとも。ミルクを入れないなら二杯も三杯もかわりやしません」
 パヴェルとロズは付き合いが長い。飲み物を作る係を賭けで決める程度には。
 その現場に居合わせると、かならずどちらかがイェナの飲み物も用意してくれる。下っ端のイェナにとっては心苦しい限りだが、断れば怒られるのが関の山だ。係をかわることを申し出れば、それもまたパヴェルの機嫌を損ねる結果になる。
「では、お言葉に甘えて」
 イェナは素直に椅子に座った。入れ替わりに立ち上がったロズを嘲笑うように、遠くエレベーターの到着を告げる音がする。
 その音に機嫌を損ねたのか、いつの間にか実体を持って現れたひよこの一羽が、イェナの髪を数本まとめて引き抜いていった。頭皮と頭蓋骨を伝って、ぶちぶちぶちとぞっとしない音がした。
 ――竜がそうであるように、竜の虫もまた他の生き物と契約ができる。
 契約によって顕現した虫たちは、その対価として契約者の体の一部を必要とする。つまるところ髪の毛は対価のひとつで、一匹が得れば他も欲しがる傾向があった。
 ほかの花虫が髪を抜くならまだいいほうで、下手をしたら頭上で奪い合いが起こりかねない。辰砂の花虫は「誇り高く勇敢で争いを辞さず、あらゆる不正義を見逃さない真の勇者ばかり」であるからだ。イェナが髪の毛を咥えた一頭を机の上に摘まみ下ろすと、案の定、ほかの花虫たちが飛びかかっていった。
 頭上でこれをやられていたらと思うと、毎度のことながら肝が冷える。
「フィールドワークは教授も行かれるんですか?」
 彼らの争いにいちおうの決着がついたのを見て取って、イェナはそう問うた。
「もちろん行くよ」
 教授が応じたのとほぼ同時、薬缶のなかで水が沸く音がした。流しに備え付けの蛇口からはかなりの温度の熱湯も出るが、ロズはいつでも汲んだ湯を火にかけて沸かし直す。
 その割に彼が入れる珈琲は、インスタントの湯に溶かすだけのものだ。彼のこだわりどころはよくわからない。しかもパヴェルのぶんは珈琲を溶かしたあとに牛乳を入れ、あえて温度を下げる。そこに大量のキャラメルソースをかけ、茶色のまだらになったものが、パヴェル教授の大好物である。
 それを啜ったパヴェルの口許には、お馴染みの茶色い髭がついていた。
「フナムシのサンプルを捕獲して標本にするんだ。今年は新種が見つかるかも」
 翡翠色の瞳は少年のようにきらきら輝いている。髭を舐め取る仕草と合わせると、彼はもはや図体の大きな幼子にしか見えない。辰砂とは真逆だな、とイェナは思った。――辰砂は子トカゲのような体つきの、老獪な大人だ。
「もちろん君も来るんだよね。期待しているよ」
 微笑んでの言葉に対し、イェナは机の上にフォルダを置くことで返答のかわりとする。ロズが置いたマグを両手で抱え、
「わたしはフナムシはどちらかというと苦手なんですけど……」
 と付け足しておく。
 イェナはこの研究室のなかにあって、教授やロズと同じ題材――つまり特定環境のキーストーン種に関する研究をしているわけではない。イェナが調べているのは生態的地位を占める生き物の収斂進化である。
 平たくいえば、どんな場所にも食物連鎖の枠組みが存在するが、その枠組みのなかで同じところを占める生き物が、似たような機能を獲得していることを研究している。さらに細かくいうなら、似た環境で育ったよく似た生き物の、それぞれが持つ差異についてを。
 そのあたりのデータを集めると、生物種の同定は飛躍的に正解率が上がるからだ。
「ソフトだけ貸してくれればいいよ。データの打ち込みはこっちでやるし、比較しなきゃいけないやつがわかるだけでも儲けものだと思ってる」
 パヴェルは残る珈琲をすべて平らげ、片目を閉じて茶目っ気を見せた。
 イェナは抱えたマグの中身をひと口だけ飲み込み、ソフトウェアのマニュアルについて想いを馳せる。シエタが作った文書はもはや怪文書というべき有り様だが、果たして教授はあれでよしとしてくれるだろうか――
 よしんばすこしくらい納得できなくとも、涙を飲んでもらうしかない。イェナはそんなことを思って、残る珈琲を飲み上げた。それからフォルダを開き、パヴェルとロズのふたりにサインを書いてもらう。
 幸か不幸か、学生課が閉まるまでにはまだ相当な時間があるはずだ。あちらまでの往復にはエレベーターを使いたい。
 そのために時間を潰すイェナの前で、パヴェルとロズはフナムシとダツの捕獲の算段を立てている。正確にはロズが、一方的に二種の捕獲の計画をパヴェルに語っている。
 珍しく熱の籠もった院生の声を聞きながら、イェナはふとここにはいない父の竜のことを思った。
 竜たちの生は二度目の生で、彼らももちろん死ぬことがある。
 彼らにとっての死の訪れは契約中のキャリアの死と同義であるとされる。キャリアが死ねば竜も死に、竜が死ねばキャリアも死ぬ。どちらかが死ぬ前に解約をすることだけが、二者の死を分かつ唯一の手段であると聞いたが――竜の虫はどうなのかな、と考える。もしも魚類の襲撃によって花虫が死んだら、イェナも命を失うのだろうか。
 あるいは命のかわりに、かけがえのないはずの〈なにか〉を。
 イェナに竜とキャリアの関係を教えた辰砂は、竜の虫との契約についてはあまり詳しく教えてくれなった。聞きたいような気もしたが、聞くべき事柄ではないだろう。
 有事に備えて辰砂自身を呼ぶコードも習ってはいるが、あれを唱えるには勇気がいる。唱える代償そのものがなくとも、辰砂はそんな些細な用事で招かれたと知れば、まさしく烈火の如く怒るに決まっている。気位が高いあの竜は、よくも悪くもアドラの火竜だ。

「コードの情報は機密性が高いから、竜の虫一匹捕まえるのも大変なんだよね」
 船の四方を囲う海を眺めつつ、ロズはそんなことを言った。
「資料の貸出手続きもそうだし、そもそも発音の手引書とかもほとんどないし。神官だって虫のことなんてだいたい存在ごと忘れてるからさ」
「そうなんですね」
 大陸から洋上への電波の届き具合を確認していたイェナは、そう答えて顔を上げた。明るい甲板の上にあって、ディスプレイに影が差したのだ。見上げた先にはロズの顔がある。
 色眼鏡越しに見た彼は、レンズの薄茶では隠し切れないほど肌が白い。
「君の家って、そういう話は教えてくれなかったの?」
「前にも言いましたけど、わたしの母はあんまりそういうのに詳しくないんです。たまたま知り合いが教えてくれただけで、そのひとも本職ではなかったので……」
「知り合い――……ああ、なるほど」
 ロズは辰砂を知っている。片親のイェナの、亡きお父さんの竜。おそらくはプライアの血筋であった父から得るはずだった知識を、イェナは父の契約竜から受け継いだ。
 人間、あるいはキャリアが必要とする知識と、竜たちが必要とする知識には差が多い。その隔絶は、そのままイェナと父の知識の隔絶になった。要するに、プライアとして必要な知識のすべてがイェナに引き継がれたとは言い難い。
 残念だなと呟いて、ロズはイェナの横に腰を下ろした。
 それから彼は急に真面目くさった顔をして、
「君の知識はうちの研究室の大事な資産だから、ほかの研究室に取られることがないようにしてね。ひよこも同じだよ」
 と言った。
「知識はわかりませんが、ひよこはそうそう取れませんよ」
 すくなくとも、人間には取れないはずだ。今はしまわれている花虫たちは、みな辰砂という火竜の配下である。彼が離れてよいと言わない限り、滅多なことでイェナのそばを離れない。辰砂の命令を上書きできる者があるとすれば、より首座に近い火竜であるが、そんなものはなかなかいるまい。アドラならばまだしも、ここはアドラの外なのだ。
 ねぇと虚空にささやきかけてから、イェナは手許の端末をふたつ折りにした。ディスプレイの灯りが落ち、ゆっくりとファンの回転が止まる。
 そうして手許から光源と音源が消えると、日の光と波の音がよく目立った。あるいはそちらに意識が向くようになった、といってもよいかもしれない。
 音のほうへと注意を向ければ、エンジンの回る音が混じっている。一から手作りしたのかしらと考えながら、イェナは風に吹き散らされた髪を抑えた。潮の匂いが混じった風は、なぜだかひどく懐かしい。
「それより。島のほうにはいつごろ着きそうですか?」
「この僕にそれを聞く? 漁師の息子にだってね、わからないことはあるんだよ」
 ロズは肩をすくめた。対するイェナは目を丸めて、漁師、と口のなかだけで繰り返す。
「メーヴェにいるような?」
「ずいぶん具体的な地名が出て来たね。メーヴェのことはよく知らないけど、あのあたりとは割とちがうんじゃないかなぁ」
 たぶんうちのほうが機械的だよ、とロズ。そんなものかと納得し、イェナはぐるりと甲板を見渡した。甲板の上には人がすくない。大半が出発当初の波に酔ってしまい、船室に引っ込んで出て来なくなってしまったのだ。
 機械的とはいえ、漁師の息子であるというロズであるからこそ、まだ甲板に残っていられるのだろう。人は見かけによらないな、ともイェナは思う。そう思うイェナも、痩せぎすの体をしているけれど、作りは他人より頑丈だ。だからこうして甲板で電波のチェックなどしていられる。
「うーん……わからなくなるくらい遠いってことですよね……」
 電波強度を示すアンテナピクトは、至極順調に減りつつあった。電波が弱まっている、もとい発生源から離れている証拠だ。
 弱い電波で無理矢理通信をすると、バッテリーが目に見えて減るので、あまり無駄な起動はさせていられない。
「そういえばアドラのサーバーにデータベース置いてるんだっけ、そのシステム」
「大元だけは。通信量を馬鹿食いするので、よく使うデータだけはダウンロードして、こっちに保存してますよ。哺乳類とかはオミット済みです」
 言ってイェナは手許の端末を叩いた。
「ダウンロードする種のデータがあるなら、今のうちです。電波的にもバッテリー的にもぎりぎりのラインですね」
「甲殻綱は?」
「ワラジムシ目は全部落としてあります」
「じゃあ軟甲綱」
「それは落としてないです。でも、今からだと全部はカバーできないと思いますよ」
「ならオキアミ目にして。余力があればホンエビ上目」
「ノープリウスとメタノープリウスとカリプトピスとフルリアで形がちがうし、オキアミ目はデータが重いんですよ。余力なんてありません」
 そうだったっけ、とロズ。そうですよ、とイェナ。
 そのあたりの見分けはイェナの専門だ。ロズが忘れていても、イェナが忘れることはけっしてない。
 ロズは深々と椅子の背にもたれながら、難しいなとぼやいた。
 そんな彼を横目に、イェナは閉じていた端末を開く。ほんのすこし目を離した隙に、電波強度を示すアンテナピクトが増えていた。ぎょっとして電波の発信源を確認すると、ファルケではなく、アドラの都市の名が書かれている。ナハティガル。アドラとファルケの国境に位置する都市だが、電波が届く距離とは到底思えない。
 まさかと思いつつデータのダウンロードを試行すれば、進捗を示すバーはにょきにょき伸びた。大学でもなかなか見かけない速度だった。
「なにこれぇ」
 と怯えたイェナの声を聞きつけ、ロズがディスプレイをのぞき見る。
「そういえばこのあたり、土着の雷竜がいるって話だったな。それの悪戯じゃない?」
「だとしたら流石にわかりますよ。そもそもこんなになるなら契約竜ですし、契約竜なら先輩にだって見えますし……」
 ダウンロードの終わったデータに損傷らしい損傷はない。既存のデータベースと結合しても問題は見受けられず、正常なデータとしての振る舞いしかしない。
 ということは、電波も正常であったのだ。別のなにかがナハティガル発の電波を騙っているのではなく、ほんとうにナハティガルから電波が届いている。
 雷竜に連なる痺虫の存在も疑い、竜の虫を可視化する本格的なコードも試したが、異常なしという結果を補強する結果に終わった。ナハティガルから正常な電波が届いている、という異常事態にはなんの理由にもならない。
 イェナは大きく深呼吸し、端末の主電源を落とした。こういうものは見ないに限る。
 ふたたび背もたれに体重を預けたロズは、
「やっぱり雷竜じゃない?」
 とさきほどの主張を繰り返した。
「そんなはずがありませんよ。だいたいわたしは人間――」
 反論するイェナの言葉は、最後まで言葉になりきることはなかった。ようやく船の揺れに慣れたのか、別の研究室の御歴々が船室から上がって来るのを見たせいだ。
 イェナは素早く鞄のなかに端末をしまった。
 このソフトウェアとイェナ自身のことだけは、ほかの研究室には知って欲しくない。
 それとなく立ち上がって目隠しになってくれたロズに、心の底から感謝した。
 
         ◆
 
 ロズに感謝しようがしまいが、イェナは研究室の荷物の大半を持って船を降りなくてはならなかった。船酔い気味のパヴェルはともかく、ロズの細腕もあまり重い荷物を持てないせいだ。
「イェナはけっこうパワフルだよね」
 と笑う隣の研究室の同期生に微笑みを返し、防水ライトの入った鞄を担ぎ直す。
「こんなの力の入れ方だよ。知り合いにコツを聞いたの」
 防水ライトの入った鞄には、フナムシを捕まえるトラップや、標本作製の器具類も入っているが、それについては秘密にしておく。防水ライト在中割れもの注意と大きく記載してあるのだから、旧友たちはそれを信じてくれればいい。イェナの肩にかかるる重さは、あくまで防水ライトだけのものだと思って欲しかった。それこそが人間らしい姿である。
 そうして降り立った島は、イェナの想像よりもずっと文明的だった。
 船が寄港できる簡素な港があり、大きな宿舎があり、ふたつは舗装路で結ばれている。そのかわりに道は砂浜の上に乗っており、砂浜が途切れれたのちには、間近に海辺の植物が迫る有り様でもあった。
 どちらかというと、人間が自然を拓いた形だとイェナは思った。それもかなり無理なかたちで。おかげで島の風景は、メーヴェのような調和とはかけ離れている。この島のあり方はたぶん根本的には(それからイェナが持つ知識の上では)火竜のお膝下の都市に似ているはずだ。
 雷竜がいるという噂も、ただの噂ではなさそうだな、とイェナは考える。けれども今はいないと、キャリアとしての感覚が確信を持ってささやいている。竜は去ってしまった後だ。
 宿舎は幸いにしてひとり部屋だった。電源もあるし、空調もある。フィールドワークとは思えないほど快適だ。すこしだけ硬いベッドに寝転びながら、イェナはかけていた色眼鏡を外した。じっと虚空を睨み上げ、ややあって懐からメモ帳を取り出す。
 革のカバーで補強はしてあるが、いつ壊れてもおかしくない、実に古いメモ帳だ。中紙はだいぶよれていて、得体の知れない染みまでついている。それでも幸か不幸か、持ち主が愛用していたインクは耐水性のものらしく、中身は滲むことなく可読性を保っている。
 もっとも、可読性という言葉がほんとうに正しいかどうか、イェナには判断がついていない。すくなくともイェナは内容を知っているが、読めるというと語弊がある。ロズやパヴェルははじめから読めない。シエタは中身を解読することができるが、彼女は中身を利用できない。
 ――彼女は正真正銘の人間で、ここに書かれているのはキャリアのためのものだから。
 付箋を頼りに何枚か紙をめくり、そっと息を吸い込む。見据えた頁に書かれているのは円を中心とした図譜だ。ぐるぐると多重に巻かれて、そこにさまざまな記号が散っている。渦のようだと思いながら、吸い込んだ息を音にかえた。
 唇から零れるのはコード。竜の歌だ。メモ帳に書いてあるのはそれを示す楽譜のようなもの。音と図譜は常にふたつでひとつ、本来はこうして合わせて使うことで本領を発揮できるという。
 今イェナが口にしたコードは虫たちを遠退けるためのもの。詩が終わりへ向かうのに合わせて、なにかが漣のように部屋から離れていく。彼らが連れて行く音は、正真正銘の虫の羽音によく似ていた。
「昔はほんとうにいたのかもねぇ、雷竜が」
 端末に、防水ライトに、あるいは部屋の建具を構築する金属にと群れていた竜の虫は、雷竜に服う痺虫だ。しかも通りすがりとは思えないほど数が多い。
 それらがすっかり消えてしまってはじめて、ようやっと波音が聞こえてくる。
 困ったように姿を見せた花虫たちを撫でてやり、イェナは深く息を吐いた。波音があってなお、灰色のコンクリート造りの建造物はドロッセルのものに似ている。
 よく眠れそうだなと思ってしまったのは、なにも船旅の疲れだけのせいではないような気がした。