147 Hz

 夜の海に夜光虫が光っている。クレーンによって掻き混ぜられた潮に乗り、岩礁地帯へ流れ着いてきた者たちだろう。波頭を青く染め上げたそれらが岩とぶつかるたびに、飛沫はひときわあざやかな光を放った。
 同じく青い瞳をもって、竜は遠い沖を眺めている。
 彼女と同じ岩に腰かけたまま、イェナはゆっくりと息を吸い込んだ。
「あれはやっぱり、お知り合いの……」
 遺物。遺品。亡骸。言い表す言葉を見つけ損ねて、ふたたび口を噤む。
 白昼の浜辺に引き上げられたあれは、まず間違いなく、この島にいたという雷竜の痕跡を示すものだった。
 緻密であったはずの機構は珊瑚に覆われ、完全に機能を停止していた。かつてはそれを運用していたはずのキャリアはもうこの世におらず、キャリアと契りを結んでいたはずの雷竜も消えた。
 朽ちるに任せて置き去られた遺構を見上げる白い横顔は、それだけの事実を雄弁に語った。
 だからこそ、イェナはこうして夜の岩礁に出て来たのだ。――珊瑚には目もくれず、ほかならぬ竜のそばについて。
「あいつはキャリアを見つけてあれをどうにかしたい、と話していたが。帰ってこないままそれなりの時間が経ってしまった」
 水竜はそう言う。
 尾を引く光を眺めやりながら、イェナはそうですかと言葉を返した。ついで、もしかしたら、と思う。あの日、メーヴェの町で見えた彼女は、くだんの雷竜を捜していたのではなかろうか。そうだとすれば、あの日の彼女が契約者を求めなかったことも納得がゆく。
「夜光虫どもが動かなかったから、ひょっとしたら、と思ってはいたのだ。わたしの勘も捨てたものではなかったな」
「さびしく、ありませんか」
「まさか。わたしは群れを作らないのだ」
 それはさきほどイェナが問うた話だ。悪いことを聞いてしまったとは思わないが、よいことを聞いたとも思えない。ただ強いて言うのであれば、かたわらの竜のことを哀れであるとだけ思う。
 群れを作らなかったはずの彼女は、竜として生まれかわったのち、添い遂げるべき相手を見つけてしまった――
「置いて行かれてしまうのは、ちょっとだけ苛々しますよね」
 水竜はうなずかなかった。イェナはすこしだけ笑って、岩の上から立ち上がった。
 ふ、と息を吐く。パヴェルとロズのいない岩礁はいやに静かだ。うっかり驚いて足を滑らせることもなかろうと判じ、イェナは思い切って眼下に飛び降りる。波のかかった岩を靴底で踏みしめると、踏んだ跡が星のように光った。
 夜光虫は物理刺激で光るのだ。
 すでに打ち上げられた死骸であっても、彼らには発光のメカニズムが備わっている。
「悲しくなくても、自分がどうしたらいいかがわからなくて。とりあえずやれることは全部試してみたけど、それも完璧じゃない気がする、という」
 座っていた岩ははるかな頭上にあった。
 見上げた先から身を乗り出した竜が、つと細い首を捻っているのか辛うじて見える。
「見てきたように語るな」
「やっぱりそう聞こえますか? 経験談なのです」
 彼女が見下ろすイェナは夜光虫ではない。だからこそ、夜光虫たちが遺した発光器官のように、なんの迷いもなく光ることはできなかった。
 そうして迷いに迷って、ついにアドラを飛び出した。飛び出した先のファルケからも飛び出して、厭うていたはずの水竜と話をしている。当の水竜はいよいよもって岩の上を踏み切り、イェナのそばへと降りて来た。竜には翼があるはずだが、それを用いるまでもなく、ひどく軽やかな着地だった。
「お父さんとやらは、死んだのか」
「ええ、そうです。わたしがまだお母さんのお腹にいるころ、国境の小競り合いに巻き込まれて、二度と帰ってこなかったと聞いています」
 イェナは深々と息を吸った。
 お父さんはほんとうはただの測量員の護衛で、かならず無事に帰るはずだった。それがあれよあれよと戦闘に巻き込まれ、二度と帰ってこなかったのだ。そうして彼がこの世に残したのは、契約を切った竜の辰砂と、いまだシエタの胎に宿っていたイェナだけ。あまりに急の話であったから、遺影にする写真さえ残らなかった。
「今はたぶん、メーヴェのあたりで砂粒にでもなっていると思います。もしかしたら海辺まで流れているかもしれないですね」
 イェナはお父さんの顔を知らない。知らないまま、がむしゃらになって彼の背中を追いかけてきた。
「そんなわけで、わたしがキャリアだったのは、家族だけの秘密になりました。戦争に取り立てられたら一大事ですから」
 深々とした溜息の音。振り返れば、夜光虫の死骸を踏んだまま、竜が腕を組んでいた。
 イェナと目線が交わると、
「おまえの生き方は変わっているように聞こえる」
 と言う。いくぶん低く抑えた声色は、彼女の言葉に裏がないことを如実に示していた。なにせ彼女は昔からとても素直だ。
 イェナはひとたび目を細めると、かけたままにしていた色眼鏡を外した。
「比較対象がないから、あまり自覚はないのです」
「そうか? さだめしあいつも同じことを思ったと思うが」
 彼女があいつと呼んだのは、かつてこの島にいた雷竜のことだろう。彼か彼女か知らないが、とかくかの竜はこの水竜の〈親〉であったにちがいない。
 そして、契約者を持ったこともないこの若い竜は、親がわりの竜の目から見た世界を聞き知って育った。きっとそこには嘘偽りや欺瞞が入り込む隙もなく、結果的にいたくまっすぐな竜が遺された――
 そう考えて息を吐く。
「実はわたしも同じことを思いますよ。あなたは変わった生き方をしてきた竜だなって」
「……比較対象がないから、わたしも自覚が――」
 言いさした竜が頭上を仰いだ。不意のことに、イェナもまた彼女と同じく頭上を仰ぐ。
 ぎらぎらと光る夜光虫を眺めていた目に、星の光がいくぶん柔らかく見えた。色眼鏡を外していてなお、だ。その視界にもっと白いものが映り込むものだから、イェナはぎょっと目を見開く。いっぽうの白いもののほうは、ほんとうにぎょっと声を発した。
「落ちたの? 眼鏡は? 上がってこれる? 怪我してない?」
 ロズだ。
 矢継ぎ早の質問に対し、イェナは色眼鏡を掲げることで返答のかわりとする。
 受けてロズが胸を撫で下ろすのを見届け、色眼鏡の蔓を耳にかけた。
「今日は教授といっしょに珊瑚を見る予定でしたよね? なにかありましたか?」
 波肌に削られた岩場は滑らかだが、それ相応の凹凸がある。
 人間よりも身体能力に優れたキャリアであるから、イェナはそれを取っ掛かりに登攀ができる。すぐさま岩礁の上に現れたイェナに、ロズはうんざりした様子で肩を落とした。
 けれども、それもほんのわずかのことに過ぎない。彼はひとつ頭を振ってみせ、山の向こうを指し示した。
「今ね、君の家のほうですごい騒ぎが起きてる。変な通信を拾ったやつがいるって」
「家のほう?」
 ずいぶんと奇妙な言い方だ、とイェナは思った。今のイェナの住まいはフリューゲルにある学生寮だが、それを口に出せない理由はなかろう。
 そもそもあそこからの電波は届かなくなって久しい。
 よもやと思いつつ、イェナは丸く口を開いた。そうしてアの音を発するより前に、伸びてきたロズの手が発声を制す。なにかと動きの鈍い院生がこうも素早く動ける事実を目の当たりにし、イェナは本気で驚いた。
「とにかくいっしょに来て」
 言って、ロズはイェナの手をつかんだ。
 引きずられるように歩きながら、イェナは後ろを振り返る。さいわいにして、水竜はついてきていない。ならば、とあわてて口を開く。
「滑るといけないですから、花虫を」
「駄目だ。なにがあっても出てこないようにして」
 イェナは息を飲んだ。出せと求められることはあったが、出すなと言われるのははじめてのことだった。しかしながら、それを叶えうるかと言われれば、話はまた別になる。イェナと契約した花虫は、みな辰砂の配下であるからだ。彼らは基本的にはイェナの言うことに従うが、有事の際には辰砂からの命令に従い、イェナを守るために行動する。
 それはロズも重々承知のはずだ。彼はあえてイェナを殴る真似をして、花虫たちに白衣を焦がされたことがある。
「僕も出ないように協力するから」
 そんなロズの言葉の調子は、あまりに強い。気押されるようにしてうなずくイェナの手を引いたまま、彼は宿舎の扉を開けた。
 それでもなお足は止めず、廊下をまっすぐ進んでゆく。
 やがて彼が開いた扉は、宿泊用の部屋に続いていた。イェナが使っているものよりふた回りは広い部屋だ。なかには誰もいないが、かすかに焦げた砂糖の匂いがした。メイラード反応、としょうもないことが頭をよぎる。――パヴェルの部屋だ。部屋の主はおらず、作りかけのプレパラートが机の上に置いてある。
 それを眺めているうちに、
「またあとで迎えにくる」
 とひとこと、ロズが部屋の扉を閉めた。
 イェナはそちらを振り返ったが、ロズを追おうとは思わなかった。扉が閉まってしまったことを差し引いても、部屋のなかが静かであったせいだ。
 遺物の引き上げでお祭り騒ぎであったはずの宿舎は、いつの間にかしんと静まり返っている。痺虫の羽音もしない。錆の浮いた窓から見える別棟の光が幻のようだ。
 イェナは押し黙って顎を引く。花虫を呼ぼうかと思ったが、いざコードを考えても口にする勇気が湧かなかった。ポケットに押し込めたメモにでも伸ばしたが、歌を歌うことだけはどうしてもできない。空気を吸い込んだはずの喉からは、ひゅうと笛のような音が漏れるばかりだった。

「大事ないか」
 ひそかな声を聴き止めて、イェナはうつむけていた顔を上げた。
 ついで後退ること数歩、背中が窓ガラスに当たる。ひやりとした感触がした。
「大事、大事といえばあなたが……」
「姿のことか? 山を越えるのは面倒だからな」
 二対の翼を備えた竜は、くぐもった声を立てて笑う。手足のない体躯を彩る鱗は、女の髪や瞳と同じあざやかな藍色だ。持ち主が体を揺するたび、鱗の縁から薄い色の光がほろほろ零れた。夜光虫と同じ色だ、とイェナは思った。刹那、喉を締め上げるようだった緊張が解ける。早足で歩いてきたおかげか、今更のようにふくらはぎが鈍く痛んだ。
「竜はほかの空間を通って移動できる、と聞いていますが」
「苦手なのだ」
 そうですかとイェナは力なく笑った。
 首を縦に揺すった竜が、ゆっくりと一歩を踏み出した。白皙の足から鈴の音がする。髪からも、腕からも、しゃらしゃらと同じ音がした。
「素人の無線通信。アドラが、ユーレに、派兵を決めた。この意味がわかるか?」
 はい、とイェナはうなずいた。
「アドラは昔からユーレに侵攻したがっていましたから。軍を派遣して、ユーレを占拠しようとしている――ということです」
 それをこっそりやりとりしている個人の電波を、この島の誰かが拾ったのだろう。君の家のほうとは、やはりアドラのことであったのだ。
「この島に流れてきている電波は、ナハティガルのものでした。同じところの電波を拾えているなら、かなり大がかりな派兵のはずです。本気でユーレを落とすつもりかも」
 そうなればアドラの人間は肩身が狭い。さいわいアドラの主教――火竜を信奉するドラクマ派は国外にもすくなくはなく、彼らの存在がアドラの人間を守るだろうが、盾としては貧弱だ。ちょっとしたきっかけがあれば、誹りや暴力を受けることもあるだろう。ロズはそれを危惧したのだ。
「つまり縄張り争いか? おまえたちは、縄張り争いで群れの仲間にも手を出すのか?」
「手」
「おっと、あれは様子見だった」
 人の姿を巧みに使って、水竜は肩をすくめた。
「とりあえず、アドラの人間はひとところに集めているようだ。雰囲気が最悪だった。おまえは集められなくてよかったな」
「そうですね」
 イェナは力なく笑った。
 プレパラートの乗った机から椅子を引き、その上にそっと腰かける。そうして呼吸を落ち着けると、次は自分よりシエタが心配になった。
 アドラに残してきた母は、独りだ。辰砂は家に残っているが、彼はシエタを守ることができない。これなら契約しておくべきだった、と今更のように考える。
 とはいえ、アドラが攻め込もうとしているユーレは普段から専守防衛に徹している。アドラは幾度となくユーレに退けられているが、一度たりともユーレを退ける側に回ったことはない。それを思えばユーレにほど近いドロッセルであっても、さほどの危険はないのかもしれなかった。そうであって欲しい、ともイェナは思う。
 思って、震える手でメモ帳を引っ張り出した。ページをめくり、真新しい付箋を挟んである箇所を開く。
 そこに書かれている内容もまた新しかった。紙面を走る辰砂の爪を追いかけ、イェナが自分で書いたコードだ。指先で辿って歌い上げると、赤い鉛筆の線がうっすらと光る。
「お母さんに無事かって聞いて。それから、また連絡しますって。あと、余裕のあるときにも返事もくださいって伝えて」
 光は一度だけ明滅すると、端から渦を描いて消え失せた。花虫が一匹も姿を見せなかったところを見るに、彼らもイェナの状況を理解してくれていたのかもしれない。
 一連の動きを眺めていた水竜が、溜息とともに机に座った。
「アドラに連絡を?」
 イェナはふたたびうなずいた。
「お母さんのところに辰砂が……お父さんの火竜がいるので。彼のところに戻るように伝えました」
 そのためのコードは、イェナがはじめて書いた自分のためのコードでもあった。――お父さんは死ぬ直前まで辰砂と共にいて、辰砂の元に花虫を遣わせる必要などなかったから。
「なるほど、そういう手があるのだな」
 水竜は感心したように言う。イェナは何度かまばたきをして、彼女の白面を見上げた。
「アドラになにか御用でも?」
「用。用というほどでもないが」
 目指したことはあるのだ、とイェナは思った。
 そうして彼女は海を渡って、陸に上った。波を辿って、いつかのメーヴェに。
「……ナハティガルへ行きたかった?」
 しゃらしゃらとひそかな鈴の音がした。白い頸をたどって落ちた髪に、ガラスのような鱗が浮いている。持ち主が呼吸をするたびに、それが音を立てている。
 絶えることのない音に負けじとばかり、イェナはひときわ強い声を出した。
「雷竜に会いたかったのではありませんか、あなたは」
「あいつがナハティガルを目指したかどうかなど、わからんだろう」
 首を横に振る。そうしてずれた眼鏡の位置を正しつつ、イェナは水竜の青い瞳をまっすぐに見上げた。
 くだんの雷竜があの遺物の修繕を願っていたならば、目指した先はナハティガルをおいてほかにないだろう。イェナには確信があった。
「遺物を修繕できる可能性があるのは、人間だけです。そのためにはキャリアの……すくなくとも人間がいるところを目指す必要があります」
 稼働を完全に停止して、数十年。数百年も動いていたかもしれないあの遺物は、たったそれだけの時間で、珊瑚にまみれた完全なガラクタになってしまった。もしもその未来を予期していれば、雷竜は焦っただろう。そんなに時間はかけられないと思ったはずだ。そのためには闇雲に人を探してなどいられない。
 だから。
「この島にはナハティガルからの電波が届きます。それを辿って陸を目指したなら、着いた先もナハティガルのはずです」
 雷竜の背中を求めるならば、水竜が成すべきことはひとつだ。ナハティガルを目指せばいい。ナハティガルに辿り着きさえすれば、ふたたび見えることは叶わずとも、在りし日の足跡くらいは追えるだろう。いかに竜が世界から切り離されていようが、キャリアの紫の目は彼らを捉える。
 だが、水竜は喜色を見せなかった。
「わたしはな、その場所を知らんのだ」
 と言う。悲しむでもなく嘆くでもない声色だった。
 そこに偽りがないことを示すように、彼女は目線を逸らすことをしない。対するイェナはしっかりと唇を噛み締め、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
 契約を持ちかけたところで、この竜はそれをよしとはしないだろう。もしも彼女がキャリアとの契約を許すならば、あの夜メーヴェから去った理由がない。いくら雷竜の行き先がわからなかったとしても、彼女にはイェナにそれを捜させる手もあったのだから。
「ナハティガルの場所がわかれば、行くのですか?」
 問うと、水竜は頭を振った。あの鈴の音色はしなかった。いつの間にか鱗は消え失せ、細い青い髪だけが仕草に合わせて揺れている。
 それを視界の端に認めて、イェナは深々と溜息をついた。
「わたしはどんなキャリアとも契約をするつもりがない。だからわたしは、彼らにどんな対価も求めんのだ」
 ひどく柔らかな声音でもって、水竜はそう述べた。わかりましたとイェナが告げると、それはよかったと笑みを見せる。
 そうして彼女はひとたび首を巡らせると、ガラスの窓の向こうを見やった。
「なんにせよ、おまえが無体を働かれていないようでよかったよ。わたしはそろそろあちらへ帰る」
 イェナは首肯した。
「お気をつけて」
 とだけ返す。
 キャリアのいない宿舎のこと、竜は容易く山を越えて帰ることが叶うだろう。そう考えたイェナの期待を裏切らず、水竜は四枚の翼を広げ、明けかけの空を見事に翔けた。

「困ったことになった」
 明朝、部屋に戻ってきたパヴェルは開口一番そう言った。椅子の上で寝入っていたイェナは、ぽかんと口を開いて彼を迎える。
「軍が来た」
 教授に椅子を譲りつつ、イェナは首をかしげた。軍と言われてイェナが思いつくのは、ナハティガルのアトロポス家が率いる一軍である。アトロポス家と契る火竜の爛は、国祖ドラクマが誇った最強の火竜として名高い。それを戦力として抱えるナハティガルの常備軍もまた、アドラの誇る強力な軍だ。
 それが別働隊としてこんな島へ現れたなら、アドラの人間以外にはとてつもなく困った話にちがいない。
 そんな考えを読んだように、
「君が考えてるような軍じゃないよ」
 とパヴェルは言った。ついで彼は唇を尖らせ、何度かはくはくと音を立ててみせる。
「ファルケの……というか、連合軍みたいなもんだね。この島に用事があるっていうんだけどさ」
 そこまでして、パヴェルは手招きの仕草をした。イェナは応じて膝を折る。その耳元に唇を寄せると、教授は蚊の鳴くような声を発してみせた。
「なんでもあの遺物は兵器なんだって。で、有事に備えて接収したいんだってさ」
「ずいぶん動きが早くありませんか」
「船舶に無線がついてるでしょ。それで昨日のあいだに本国の船に連絡が行ってたみたい」
 そうしておっとり刀で駆けつけてきた、というわけだ。
 合点がいったイェナは膝を伸ばした。窓の外に目を向ける。
 まだ日の登り切らない刻限にもかかわらず、屋外にはすでにちらほらと人影があった。その大半の背格好は大きく、学生らしさに欠いている。――パヴェルのいう、兵器を接収しにきた軍人たちだ。
「まぁ、ほんとうに兵器かどうかは微妙らしいよ。この辺に兵器が沈んでるっていう、大昔の記録だけはあったみたいだけどね」
「あの珊瑚のお化けが〈当たり〉かどうかは不明。そういうわけですね」
 パヴェルはうなずいた。彼はそのまま床を蹴りつけ、椅子についたローラーを使って移動を始める。離れて行く彼の背中を見やりつつ、イェナは深く息を吐いた。
 大昔の記録に残された兵器には、心当たりがあった。いかなる竜をも沈黙せしめる、母なる海が抱えた秘密――竜の言葉を額面どおりに受け取るなら、山ほどの人を殺せる兵器でもるはずだが。
「生態系の保護の観点的には、海に戻して欲しいんだけどね」
 海中にある限り、あれは珊瑚の苗床だ。繁殖した珊瑚は小魚の住処になる。さらにはそれを求める魚がやってきて、彼らに依存する生物も現れて、海の営みを支える柱として存在できる。――電気分解による酸素供給がなくとも、あれは海の一部になれるのだ。それは兵器であることよりずっとおだやかで、理想的な暮らしだろうとイェナは思う。
「わたしも同意見です」
 兵器でないならより一層、海へ戻してやって欲しい。
 そうだよねえとパヴェルが腹を揺らしたのと入れちがいに、ふたたび部屋の扉が開けられた。そこから顔をのぞかせたのはロズだ。隈の浮いたひどい顔をしていたが、イェナを見つけるとにこりと笑う。一点の曇りもない笑みだった。
「島からの電波は、よほどのことがなきゃ大陸に届かないって、軍からお墨付きが出た。おかげでスパイ疑惑はなしになった」
 へへへ、と声を上げる。一音ずつをていねいに発声する、不自然極まりない笑い声。
「それでアドラから来た学生を集めていたんですね」
 にわかにロズが目を見開いた。
 いっぽうのパヴェルは、ベッドの上にクマ柄のパジャマを並べながら、
「アドラの軍の規模も、具体的な行動も、なにひとつわからなかったからね。派兵を決定したっていうくらいで騒ぐの、ほんとうによくないよ」
 とやけに真面目くさった顔で告げる。
「そもそもこいつに事情を話してないのに……」
「君が話さなくたって竜が話すでしょ。この島にはいるんだから」
 これにはイェナも目を見開いた。この教授はいったいどこまでイェナの――キャリアのことを知っているのだろう。そう思いはしたものの、教授のウィンク(というのは優しい表現で、彼は確実に両目を瞑っていた)は追求の気力を削いだ。
 結果的にイェナは口を噤む。
 同じく口を噤んだまま、ロズが手招きの仕草をした。応じて扉のほうへと歩み寄ると、出てもかまわないと告げられる。うなずいて部屋を辞すと、彼も後ろからついてきた。
「ひよこは出さないほうがいいな。たぶん、あの遺物はあれ絡みだ」
 あれはまちがいなく竜のことだろう。
 イェナはふたたびうなずいて、ことさらにゆっくりと廊下を進む。
「なら、噂が事実かどうかをたしかめて来ようと思います」
「正気か?」
「いちおうは」
 アドラを軍事国家たらしめるのは、竜の力によるものも大きい。竜の力はそれ自体が兵器になりうるからだ。その証左に、アドラでもっとも軍事的な力の強いナハティガルは、最強の火竜である爛を擁する。
 だが、竜は兵器そのものではない。
 相手に手心を加えることもあり、端から標的を見逃すこともある。竜たちの力を借りて振るうキャリアも同様だ。竜も、キャリアも、道具ほど使い勝手がよくはない。大衆や指導者が撃てと命じても、個人が否と言えばそれで終わりになってしまう。
 けれども、正真正銘の兵器は真逆だ。撃つと決めれば誰にでも撃てる。最初のひとりが引き金を拒否しても、第二第三の担当者が引き金を引く。
 ――つまりは竜そのものよりも、竜絡みの兵器のほうがおそろしい。
「仮に事実だったらどうするんだよ」
「万が一のとき、アドラに向かないように努力します」
 廊下を歩む足音が、ひとつ減った。振り向けばロズが足を止めている。
 文字どおり頭を抱えて唸るその姿は、羽織った白衣と相まって、狂気的な化学者のものにしか見えなかった。
「せっかく軟禁なしで乗り切れたのに、どうしてそう変な努力をしたがるの」
「お母さんを守らないといけないからです」
 お父さんは、そのために侵略に加担すると決めたのだ。
 だからイェナは、遺されてしまった者としてシエタを守る。
「もし来歴がバレたら捕まるよ、軍に。下手したら大学にもいられなくなる」
「大学にいられなくても、研究はできます。最悪でも、お母さんがいれば」
 お父さんの夢のためにも、大切なのはシエタだ。
 冗談でしょ、とロズが呻いた。イェナはなにも言わなかった。
 やがて立ち上がったロズの髪は、掻き回されてぐしゃぐしゃになっている。それを直そうともしないまま、彼はイェナの脇をすり抜けた。
「先輩」
 と呼ぶと、
「見なかったことにする」
 と返ってくる。聞かなかったのまちがいではないかと思ったが、それを言うのは気が咎めた。歩み去ってゆくロズの背中は、時化の海をゆく船にも似ている。
 彼が後輩のために奔走してくれたのだということを、イェナは今更のように理解した。
 そうして白い背中に頭を下げることしばし。イェナは廊下の窓を押し開き、砂浜とは逆のほうに飛び出した。体を伏せるように低い姿勢を保ち、脇目も振らずに地面を走る。
 よほど急拵えの部隊と見えて、軍人とはひとりも出会わなかった。
 ――砂浜に鎮座するはずの鉄錆た躯体も、イェナの目には映らなかった。

 辰砂が辰砂であるように、竜には個体名を持つ者がすくなくない。だが、イェナはくだんの水竜の名前を知らなかった。考えながら歩くうち、打ち寄せる波に爪先が浸った。それを機に頭を振り、すみませんと声を張る。
「逃げてきたのか?」
 応じるささやきはすぐ背後から。来た道を振り返れば、そこに求めた竜がいた。
 イェナはほっと息を吐き、高い位置にある彼女の顔を見上げた。
「問題がなくなったんですよ。軍隊がきて、わたしたちの無実を証明してくれたので」
 そもそも、アドラの派兵は寝耳に水の事態だった。スパイ容疑をかけた側も「万一に備えて」程度の考えであったから、イェナはロズの策で軟禁からも逃れられた。
 それを語ると、水竜はひとつ首肯した。ついでみずからの顎をつかみ、青い瞳でイェナを見下ろす。
「つまりおまえは用事があってここを訪れた。そう考えてもよいか?」
「話が早くて助かります」
 言って、イェナは山のほうを見た。水竜もまた同じほうを見る。
 けれども彼女が見ているのは山ではないはずだ。イェナにはそんな確信があった。彼女はきっと、イェナと同じものを見ている。
「あれは〈母なる海の秘密〉なのですか」
「そうであると言える。だが、そうではないとも言えるな」
 竜はなにかに腰かける仕草をした。これまで彼女と語らった岩礁は潮に沈み、腰を下ろすべき岩もないが、彼女はたしかにその場に座った。ほっそりとした足を組み、同じく細い指で膝を抱える。
「動力になる竜がいないから?」
 イェナの問いかけに対し、竜は時間をかけて微笑んだ。言葉よりも如実な否定。
 冷静に考えてみれば、この地からキャリアと竜の力が失われたのはずっと昔の話だ。それでもあの遺物はずっと動き続けていて、二十年ほど前にようやく稼働を止めた――
「おまえが知る兵器のなかで、一番強かなものはなんだ?」
 イェナは唾を飲み下した。
 今も昔も、一番強い兵器は決まっている。この世には触れることがないとされ、その無力ゆえにあらゆる軛を外れたもの――竜だ。その名が頭に浮かんだ刹那、耳の奥がつきんと痛んだ。文字どおり音を立てて血の気が引いてゆく。
「竜は気まぐれで、人の世に特別な関心を持たない。わたしたちを縛るのはこの世にただひとつ、情と呼ばれるたぐいのものだけだ」
「あの機械は、竜なのですか」
 青い髪が揺れる。場違いなほど軽やかに、しゃらしゃらと鈴の音がする。
「そういうコンセプトで作られた。最終兵器と同じような、キャリアに飽きた人間の手遊びさ。自由意志を制限した意識をひとつ作って、殺して竜に変える。作られた竜は忠実で、兵器としての在り方に疑念を持たない。プロジェクト名はなんといったかな……」
 鱗の浮いた髪を指に絡めて、竜は視線を彷徨わせた。ウルティマ=ラティオは稀に遺物として発掘される武器の一種だが、その威力にはお墨付きがある。それを持てる者は限られるが、戦場での活躍は枚挙にいとまがない。同じ名前を冠された枝であるならば、イェナは何本も見たことがあった。枝どころか握った拳をそう呼ぶ子どももすくなくなかった。
 それを振りかざす子どもはドロッセルにもいて、メーヴェにもいた。きっとグライトにもいて、フリューゲルにもいる。もしかしたらこの島にも同じ名前の枝があり、パヴェルあたりが振り回しているかもしれなかった。
 畢竟、ウルティマ=ラティオとは物語のなかの剣だ。
 実在しながらも正しい認識を受けず、畏怖と羨望を持って受け入れられるもの。それほどまでの時間によって隔たれた、旧文明の遺物である。
「マグヌム=オプスだ」
 隔たりを超えて響く声は、奇妙に抑揚に欠いた。
 イェナはもう一度唾を飲み込み、紫色の目を閉じる。そうして、竜の語った言葉を胸のなかで反復した。
 自由意志のない竜がいるとしたら、それは人が操れる兵器と同義だ。契約をしたキャリアを無力化してしまえば、あとは誰もが命令ひとつで操れる。その事実におそれを覚えると同時、イェナの胸中にはふと疑念が湧いた。泡のようなそれをすくい上げ、そっと舌に乗せてみる。
「竜は生まれたのですか?」
「最終的にはな」
 水竜は髪に絡めた指を解いた。そうしてイェナの頬に手を添える。温度もなければ感触もない、影のような指先だった。
「わたしは。その計画が生み出すに至った、唯一の竜だ」