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 機械の再起動が叶えば、二頭目の竜を作ることもできるかもしれない。その竜がひとたび牙を剥いたとすれば、一切の躊躇もなく人を殺すにちがいない。水竜はそう述べた。
 宿舎の一室でそれを聞いたロズは頭を抱え、パヴェルはへえと気のない返事をした。イェナが首をかしげると、
「だって僕はあれをもう一回沈めたい派だし。兵器としてどうこうとかはまったく興味がないの。ゼロなの。コーヒーのブラックより食指が動かない」
 とのたまい、例の甘いコーヒーをずるずる啜った。
「壊してしまったらどうかな。壊してしまったら再起動しないでしょ」
「簡単に言いますけど、遺物ってけっこう頑丈ですよね。ユーレのクレーンとか、僕が生まれる前から稼働してたと思うんですけど」
 パヴェルと同じものを啜りながら、ロズはおもむろに眉根を寄せた。ふたりの顔を見渡して、イェナはゆっくりと手にしたカップを置く。パヴェル教授お手製のキャラメルコーヒーミルクは、まだ口をつけずに残してあった。
「壊せないということはないと思います」
 それだけの容量があってなお、カップの中身は湯気を立てない。
「辰砂に頼んでみようと思います。彼が無理そうなら銀朱を呼びます」
 銀朱はさるプライアの――お父さんの家に伝わる竜の一柱である。正確には「伝わっていた」竜というのが正しかろう。最後の当主の非力が原因となり、彼はそれまで見守ってきた家を離れた。
 彼はたいへん武勇に優れた竜であり、かつてはドラクマの三竜に抗したという。眉唾の話ではあるが、それを語ったのは銀朱ではなく、辰砂だ。彼がそうまで褒めそやす竜なのだから、遺物のひとつも壊せないようでは困る。
「呼べるの?」
「たぶん」
 イェナは彼の姿すら知らないが、呼び出すためのコードはあるはずだ。辰砂が知っているだろう。
「なんの竜を呼ぶにせよ、今すぐはやめておいたほうが無難だねえ」
 パヴェルは空になったカップをテーブルに置いた。白と茶のまだらになった髭を舐め、窓の外を顎で示す。受けてカーテンの隙間をのぞけば、宿舎の前に広がる砂浜が見えた。それから陸に上がった珊瑚の塊。それに群がる自称専門家と、彼らを取り巻く軍人。
「連中を巻き込んだら完全に敵対行為でしょ」
「……ちなみに」
 鋼の躯体を取り巻く珊瑚は白い。骨のような色味はすこしだけ、ここ数日でよく見た女の指のものに似ていた。
「あれがやけにぴかぴか光って見えるのは、わたしだけですよね」
 そのなかで輝くオレンジ色だけを指差して、イェナはひそめた声で尋ねた。たぶん、と答えたロズの視線は目印を持てず、ふらふら左右に彷徨っている。
 光は稀にちいさく火花を散らしていた。そのひとつを見つけると、ようやくロズの視線が定まる。それを目の当たりにし、イェナは思い切り肩を落とした。
「こちら岸にはびっくりするほど痺虫がいたんですが、みんなあそこに集まっているみたいです。先に除けておかないと、竜の攻撃の邪魔になるかも」
 うなずいて、パヴェルは髭をつまんだ。
 毛先をくるくると撚ることしばし、やがて机のほうに向き直る。作りかけのプレパラートのあいだに頬杖をつき、状況を整理しよう、と言う。イェナは首肯を返し、すこしだけ開いていたカーテンを閉め切った。
「まず、くだんの遺物のことを〈竜の卵〉と呼ぶことにする」
 宣言するパヴェルの声は、心底楽しそうだった。対して、ロズもまた心の底からうんざりしたふうの言葉を返す。
「マグヌム=オプスじゃダメですか」
「それは計画の名前であって、遺物の名前じゃないから」
 言われてみれば、たしかにそうだ。遺物を使ってなされる計画がマグヌム=オプスなのであって、遺物の名前はマグヌム=オプスではない。イェナは早々に異を唱えることを諦めた。――パヴェルのご所望の名前は、あの遺物の来歴を端的に語っている。
「あの〈竜の卵〉の殻は珊瑚だ。我々が守りたいと思っているのも、この珊瑚。そんなわけで〈竜の卵〉を軍隊が接収するような事態は避けたい。これはうちの研究室の総意ということでいいよね」
「名前に納得がいかないこと以外は」
 研究室のナンバーツーはふんと鼻を鳴らした。
「恒久的な引き上げを阻止する観点から、マグヌム=オプスの破壊も総意でしょう」
「だから〈竜の卵〉だってば。君もしつこいね」
 ねぇとパヴェルから同意を求められたが、イェナは曖昧に微笑むに留めた。どちらの味方をするにせよ、もう片方の恨みを買うのは明白だ。ならば自分は中立でいるほうがいい。幸か不幸かイェナの故郷――商業都市ドロッセルは年期の入った中立派で、それによってうまく平穏を守ってきた都市だ。故郷の在り方を真似るのはなんの困難もなかった。

 散々同じ言い争いを繰り返しながら、パヴェルとロズは今後の計画をとりまとめた。
 まずは軍人たちと大学の関係者を遺物の近くから追い払うこと。これにはパヴェルが強権を振るうつもりであると言った。
 次に障害になりうる痺虫を退けること。これについてはイェナがやることになった。その補助がロズ。ロズはさいわいにして操舵ができるので、虫を集めたイェナが彼の運転で洋上へ出る。そうしてなるべく距離を稼ぎ、契約した竜に遺物の破壊を任せる。
 それが計画のすべてだった。
「教授が一番損な役回りじゃないですか?」
 最後にロズがそう問うたとき、パヴェルは冗談めかしてウィンクをした。
「いざとなったら特許を全部持って逃げるから、老後の備えはだいじょうぶ」
 果たしてその言葉を頭から信じてよいものなのか。ロズとイェナは顔を見合わせたが、問い糾すための言葉は口にできなかった。すくなくともイェナは思いつかなかったし、ロズも同じであったのだろうと思う。
 さらには念を押す気にもなれず、ふたりは永久に疑問を胸にしまっておくと決めた。
「疑問がないなら決行しよう」
 とパヴェルが言うので、これにもふたり揃って首肯する。
 パヴェルはうきうきとした様子で、完成品のプレパラートをひとつ手にした。
 ロズもイェナも問うてなどいないのに、お守りがわりだと自慢げに笑う。ほんとうだろうかと問う間もなく、彼は扉の向こうへ姿を消した。
 それを見送り、顔を寄せ合うようにしてカーテンの隙間をのぞくことしばし。やがて砂浜に現れたパヴェルは、飛び跳ねるような足取りで人垣に近づいていった。手近な学生に話しかけると、話しかけられた側が弾かれたように駆け出す。その学生から話しかけられた学生もまた、あわてふためいた様子で走り出した。
 玉突きよろしく数名の学生が走ったのち、ついに走者は教授にかわった。ふたりめの教授は走らなかった。かわりにひとりめの走者に数名の教授が群がり、顔をつき合わせて話をしている。
 イェナはふと首をかしげた。――ロズの頭の感触がする。
「なにが強権だ、あいつ」
 言いつつ、ロズはイェナの頭を押した。
 謝罪を告げて離れると、かまわない、と返される。思わず彼のほうに目をやれば、いたく渋い顔で腕を組もうとするさなかだった。
「ふつうに説得してる」
 右手の人差し指が左腕の肘を叩く。
 そのさまを見届けたイェナは、ふたたびカーテンの隙間をのぞいた。
 目を離していたのはほんの短いあいだだが、パヴェルが人に取り巻かれていた。取り巻く側には学生がいて、教授がいて、さらに軍人たちがいる。
 パヴェルが掲げた手にはきらきらと光るものの姿があった。プレパラートだと驚愕したのも束の間、溜息をついたロズがイェナを呼ぶ。
「急に備えて、連絡船には鍵がついたままのはず。僕らも準備を始めよう」
 イェナに異論はなかった。あらかじめ回収しておいた端末を立ち上げ、画像編集用ソフトウェアを立ち上げる。使用する画像データもすでに用意してあった。黒一色の画像をオレンジに塗り替え、ゆったりと歌を口ずさむ。
 旋律が長く尾を引くにつれ、海鳴りの響きが遠のいた。
 かわりにイェナの鼓膜を揺らすのは、ぶぅんと低い虫の羽音だ。痺虫が来ている。
 イェナは歌を止めることなく、首肯の動作を合図にした。
 了解を告げたロズが扉の取っ手に触れると、次の瞬間、なにかが爆ぜる音が響いた。火花と呼ぶには青白い、ひどく不気味な光だった。
「檣頭電光だ。船以外でも出るんだな……」
 ロズはまじまじと指先を見つめる。
 檣頭電光とは、悪天候時に船のマストが光る現象のことだ。イェナは絵でしか見たことがない。檣頭電光が観測できるほどの悪天候とはつまり、船の沈没を覚悟するべき状況だからだ。海とともに暮らす人間でない限り、そんな悪天候下で船には乗らない。
 画面に表示されたコードを読み終えたイェナは、目をしばたたかせてロズを見た。
「先輩はほんとうに漁師の家の子なんですね」
 悪天候でも船を駆り、海とともに生きる人々。
「疑われる理由がさっぱりだ」
 言ってロズは扉を開いた。戸板に足を挟んでおいてくれたので、イェナが取っ手に触れる必要はない。叩きつける羽音をつれ、端末をひっつかみ、転がるようにして廊下へ出る。
「絶縁はしなくて平気かな」
「防水袋に入れることも考えましたけど、竜の虫は入ってきますから」
 竜の虫たちは物理世界に親しみはすれど、その法則に縛られる由がない。痺虫たちは気が向けば端末を破壊するだろうが、それを防ぐ術はイェナにはなかった。
 そうかと応じて、ロズは廊下を駆け出す。煌々と光る端末のディスプレイを掲げ、イェナもまた彼を追いかける。
 外に飛び出したところで背中を追い抜き、砂浜上の舗装路を抜けた。
「さらに漁業組合に連絡を取らずにこんなものまでを使ってごらん。絶対沿岸諸国の恨みを買う。ユーレだって怒るかもしれない。そうしたらサプレマも容赦しないかもしれないよ」
 パヴェルの大声が風に乗って流れてくる。彼の手にはあいかわらずプレパラートがつかまれていた。太陽光を拡散し、まっすぐに断たれた断面が明るく光っている。
 目を背けた先の海には、波頭の白が目立った。だが、そこに奇妙な違和感がある。波そのものが赤いのだと気づいたとき、イェナは船着場に辿り着いていた。
 振り返れば、ロズはだいぶ後方を走っている。まだと言うべきか、もうと言うべきか。やきもきとして待つさなか、人垣のなかから数名が離れた。
 離れた人員は揃いの服装をしている。軍人だ、と判断し、イェナは端末のスピーカーの調整ボタンを押し込んだ。一気に音量を最大に引き上げ、録音しておいた歌を再生する。音割れを起こしてがなる端末を連絡船に投げ込むと、虫の羽音が薄まった。桟橋を逆走し始めれば、いよいよもって潮騒が戻ってくる。
 イェナは拳を握り締めた。
 息を切らせたロズとすれ違い、握った拳を振り上げる。
 拳を下ろしたとき、指の背がひどく痛んだ。遅れて、なにかひどく重いものが砂浜に落ちる音。応じて足を止めた男の襟首をつかみ寄せ、勢いをつけて投げつける。今度は人間同士がぶつかる音がした。
 色眼鏡越しの視線を向けた人垣は、元の形を保ったままだった。そこから離れる者はもういない。イェナは幾分ほっとした気分で駆け出した。
「あれはうちの学生だけど。今から沖に出て本土に通信する。立場を悪くしたくないなら宿舎に引っ込むべきだね。僕ァね、あることないこと吹き込むのに頓着ないんだから」
 勝ち誇ったように笑うパヴェルの声が、みるみるうちに遠ざかっていく。
 なんとか船着場へ辿り着いていたロズは、すでに連絡船の舫を外しつつある。イェナが駆けつけたときには、船に乗ろうとして難儀していた。舷梯が降りていないからだ。
 イェナは彼の尻を両手で押し上げ、船のなかに放り込んだ。続けて自分も桟橋を蹴り、船の上へと飛び乗る。
「後輩が本職の軍人より強いのを知ってしまった……」
 甲板に転がったロズはそんなことを言う。彼の手を引いて立たせてやりつつ、イェナは軽く首をすくめた。
「あの人たちはどうせ、印刷物も十枚重ねくらいまでしか破れないんですよ。うちの花虫以下です」
「全然納得がいかない。というか僕も花虫以下だ」
 ぶすくれた様子を見せつつ、ロズは操縦席に座り込んだ。
 慣れた様子でエンジンをかけ、錨を巻き取る。続く動き出しは大陸を出るときよりずっと滑らかだ。落ち着いた気分で後方を見れば、パヴェルが教授連中をひとりずつ指差しているところだった。指差された側はしばしののちに学生を連れ、しょぼしょぼと宿舎へ引き上げてゆく。
「教授は順調そう?」
 と尋ねられたので、イェナは是だと答えた。
「痺虫もだいたいこっちに来てます」
 がなるスピーカーの音量を落としても、痺虫が去ってゆく気配はない。イェナは深く息を吸い込むと、ポケットのなかからメモを取り出した。オレンジのフィルム付箋を挟んだページを開く。
「まずは辰砂」
 攻撃力の高い銀朱を呼ぶにせよ、そのためのコードを知っているのは辰砂だ。そもそもからしてイェナは銀朱と会ったことがない。辰砂のとりなしもなく銀朱と対面するのは、術があったとしても怖かった。もっとも正直なところを言えば、辰砂を呼ぶことすら怖いとは思う。離れ離れの場所から彼を呼ぶのは、イェナにとってははじめての話だ。
 そしてたぶん、辰砂にとっても同じこと。
 けれどもきっと、彼は招聘を恐れはしないだろう。
 彼が従える花虫がそうであるように、彼もまた勇士であるはずなのだ。それを思って歌い上げたコードは、彼が自認する性質のように、どこか勇壮そうな響きを帯びている。
 波音に負けることのない音色がどこへ響くのか、イェナはにべもなく考えた。

 遠く、波の音がする。
 その隙間を縫うように羽音がし、さらに細かな隙間を縫って自分の声がする。録音を経た声は聞き慣れたものより高い。骨ではなく鼓膜を通して聞いているせいだ。
 竜との会話に鼓膜は必要ないと聞いたが、果たしてあの水竜はほんとうに肉声以外で喋っていたのだろうか。そんなことを考えながら腕を伸ばす。甲板に転げた端末をつかんで引き寄せ、音量を最小に絞った。
 離れていく羽音がないことをたしかめてから、イェナは端末を放り出す。
「辰砂は?」
 おそるおそるといった様子でロズの声がした。
 イェナは広い甲板の上に寝転んだまま、
「来ません」
 とだけ答える。死ぬほど頭が痛かった。過集中のせいだろうと思われたが、実態はよくわからない。
 ようやく体を起こすのと入れちがいに、端末がちいさな電子音を立てた。
 光る画面をのぞき込むと、通信用のソフトウェアが立ち上がっている。可愛らしい手書きの白猫のアイコンは、ほかならぬシエタからの通信であることを示す印だ。
 イェナはのろのろと端末を引き寄せ、通信受領のボタンを押した。
「よかった! つながった!」
 画面に映るシエタの挙動はもたつきが大きい。通信が遅いのだ。
「あんたに急ぎの用があって何回も連絡したのに、出ないから。なにかあった?」
「辰砂が……」
 彼が、イェナの歌に応じなかった。
 コードがまちがっていたのか、あるいはなんらかの事情で辰砂が召喚を拒否したか、はたまた別の理由か。言葉に迷うイェナに対し、シエタは溜息を吐く仕草をする。
「なら、きっと要件は同じね。落ち着いて聞きなさい」
 イェナはゆっくりとうなずいた。運転席を離れたロズが横に並ぶ。
「辰砂は昨日の夜に家を出たわ。銀朱が家に迎えに来たの」
「……銀朱が?」
「そうよ。新しいキャリアの人を連れてね。その人と契約して、辰砂もユーレのほうに行くことになったわ」
 ユーレのほう――戦争だ。
 竜たちは、契約者がいてもコードの呼び立てに応じることができる。それを鑑みるに、辰砂はイェナの呼び立てを無視したのだろう。つまりは戦争のほうを優先している。
 青褪めたイェナにかわり、ロズがシエタに事情を説明した。
 フィールドワークのために海へ来ていること。兵器を発掘してしまったこと。軍隊が派遣されてきたこと。彼らの手から逃す意味も込めて、発掘したものは破壊すべしと結論づけたこと。そのために竜の助力が必要なこと。
 ディスプレイのなかのシエタは、黙ってロズの話を聞いていた。すべての話が終わるのを待って、彼女はかたわらにあったカップを手にした。その縁をゆっくりとなぞる。
「あなたはいったい誰なのかしら。お母さん的にはまずそれが気になるんだけど、今は見なかったことにしておくわ」
 目線もカメラには向いていない。やがて彼女はカップを置くと、そのままの姿勢で口を開いた。
「あなたたち、洋上にいるのね。それならそのまま適当なところに降りて、公共の交通機関でナハティガルを目指しなさい」
「公共の?」
「派兵に反対してる連中が移動に使ってるから。眼鏡を外してナハティガルに行くって言えば、応援されこそすれ反対はされないわ」
 実際に侵略の音頭を取っているのは中央とのことだが、兵を揃えているのはナハティガルだ。その蛮行を止めるのだと言えば、紫の目のキャリアを止めるものはいないだろう。シエタはそう言う。
 キャリアは竜の依り代だ。ゆえにキャリアの意は竜の意でもある。――竜が自分たちに賛同するなら、派兵反対の派閥としては止める理由がないのだろう。
 痛みの治ってきた頭を縦に振ると、シエタはようやくカメラを見た。目が合う。
「ナハティガルのライブラリーの地下室に、竜を呼ぶコードが山ほどあるはず」
「魅力的なお話ですが……さすがに一般人では入れないのでは?」
 画面の端の黒い部分に映ったロズが、きつく眉根を寄せるのが見えた。
 ライブラリーの地下といえば、おおむねが機密性の高い情報を保管する場である。掘り抜かれた地面は壁よりもうんと頑丈だからだ。続く扉も締め切られ、相応のロックが施されているだろう。コードの情報の重要性を思えば当然の処置だが、侵入は困難を極めるにちがいない。
「そんなに怖い顔しないで」
 シエタが苦笑し、イェナは自分も眉間に皺を寄せていたことを知る。
「わたしの古巣だもの。電子ロックぐらい開けてあげるに決まってるでしょ」
 そもそも、と彼女は画面の外を指差した。二度三度、なにかを軽く小突く仕草をする。
 なんとなく視線を滑らせれば、そこにはアンテナピクトが並んでいた。電波の発生源はナハティガルである。
「わたし、昔のバックドアでナハティガルの電波に潜り込んでるの。あんたがいるはずのフリューゲルまで届く電波は、ドロッセルにはないし」
 イェナはロズと顔を見合わせた。口にするまでもなく、違法なのではないか、と互いの顔に書いてある。ロズは大書していたし、イェナも見落としがないようしっかりと書いた。そんな両者の沈黙にコロコロと笑って見せ、シエタは机に頬杖をついた。
「竜と契約したら、お母さんにも会わせてちょうだいね」
 わかった、とイェナは言った。お別れは言わない。
 シエタは黙って通信を切り、辺りには潮騒だけが残った。虫の羽音は耳を澄ましてようやく聞き取れると言うところ。音は島嶼ではなく、大陸のほうへと続いているようだった。

 連絡船で沿岸に乗りつけ、そこから徒歩で首都を目指した。シエタが口にしたとおり、誰もがイェナの道行きを妨げなかった。
 首都スペクトを経由して、ナハティガルへ。ロズはドロッセルにも寄るかと聞いてくれたが、イェナは首を縦に振らなかった。プレパラート一枚で粘っているパヴェルが、あとどれほど持つかの確証がないせいだ。
 鉄道のコンパートメント席でサンドイッチをかじりつつ、そうだよねとロズは笑った。
「でも、それなりに保つんじゃないかな。あのプレパラートに挟んであるのは、ノクチルカの一種なんだよ」
「……ノクチルカ?」
 そうだよ、とロズはうなずいた。
「ノクチルカは夜光虫のこと」
 それならばイェナも知っている。ここにはいない水竜といっしょに、岩礁でたくさん観察した。彼らの光が観測できるのは夜だけで、昼間は光を観測できない。かわりにその姿は不吉なほどの赤色に見え、大発生すれば赤潮と呼ばれる。島の近辺の海が赤かったのも、そのせいだ。そこまで行くと海洋産業への打撃も計り知れない。
「だいたいの光るものと同じで、夜光虫はルシフェラーゼがルシフェリンを還元することで光る。夜光虫のルシフェリンはクロロフィルの誘導体で、渦鞭毛藻類ルシフェリンっていう名前がついてる。これは反応で出る光が青いんだけど……」
「たしかに青かったですね」
「うん。でも、実はやけに色が濃い気がしてさ。サンプルを捕獲してみたら、すこしだけ暖色の混ざった光り方をするやつがいたんだ。これはホタルのオキシルシフェリン――還元後の成分に由来する光のはずなんだよ」
 イェナはひとくちだけ自分のサンドイッチを口に入れた。携帯容器に入ったレモンティーでそれを流し込み、つまり、と述べる。
「新種ですか?」
「身も蓋もない言い方をするなら、たぶんそう。だから被害状況がはっきりしない」
 ロズは深々と溜息をつき、新しいサンドイッチの封を破った。
 続く咀嚼音を耳にしながら、イェナは窓の外を見る。夜半のこと、あたりの景色はすっかりと闇に沈んでいる。目立って見えるのはナハティガルの明かりばかりだ。それは星よりも白く眩しい。それらに目が慣れるより前に、鉄道は駅に滑り込んだ。ロズとふたり、いちおうの切符を見せてホームへ降りる。
 ひとびとの噂話は派兵の件で持ちきりだった。まばらに聞こえる話を総合するに、先日ナハティガルに黒と赤の奇妙な竜がやって来たのだと言う。それとともにやって来た奇妙な団体がすべての原因ではないかというのが、だいたいの人が持つ共通の見解だった。
 あれはサプレマだったのではないか。そう語る言葉も小耳に挟んだ。
 これから竜の力を振り回そうとしているイェナは、ぎくりとして足を止めた。
 その手をロズが強く引くので、ゆるゆると従うかたちで歩みを再開する。
「出て行ったって話だろ。ほっとけ」
 イェナはなにも言わなかった。かわりにロズを追い抜いて、灰色の町をすり抜ける。アドラの建物は個性に乏しく、行くべき先は見えないが、イェナにはまったく問題がない。 
 ひとえに慣れているからなのだが、正気か、とロズは漏らした。
「色眼鏡がないぶんましですよ」
 言ってイェナは角をひとつ曲がる。あれからシエタが送ってきた地図データによれば、目指すライブラリーはその先だ。目抜き通りから離れた道に人気はなく、喧噪は幕をかけたように遠い。駆け出す足音がよく目立った。
 やがて現れた目的地は、窓のすくない建物の姿をしている。
「たぶんここ」
 たった数個の窓から見える明かりはない。自動扉には本日閉館の札がかけてあった。警備員くらいはいるかと思ったが、その気配さえうかがえない。
 イェナとロズは顔を見合わせ、慎重に扉に手をかけた。いくら自動ドアとはいえ、有事に備えて手動の開閉ができないわけではない。えいやとイェナが力を込めると、扉は音もなく右手に開く。なかをのぞいても、人の姿はどこにもなかった。死んだように静かだ。イェナは紫色の目を細め、慎重に扉の隙間をくぐった。
「警備の監視も切ってる、わけではないんだよな、これは」
 あとをついてくるロズは、おそるおそるの塩梅で天井を見上げた。
 彼の視線の先にはお椀型の出っ張りが存在する。強化ガラスの内側で点滅するように緑のランプは、わかりやすい正常稼働を示す証だ。その脇にあるカメラが左右に向きをかえるたび、かすかなモーター音が耳をついた。
「警備スタッフが飛んできたら、真っ先に捕まる自信があるんだけど」
「だいじょうぶですよ。安心してください」
「なんなの、その根拠のない自信は……」
 イェナは力を込めて自動扉を閉めた。手動式の鍵を回し、侵入者が入ってこられないようにする。それから一度だけ緑のランプを見上げて、ロズのほうを見た。
「絶対に悪用しないで欲しいんですけど」
 と前置きしてから、彼がうなずくのを待つ。
「カメラ自体は正常稼働なんです。スタッフに送る映像データだけ差し替えて、異常が出ていないようにしてるんですよ。カメラが止まるとスタッフが来ますからね」
 そうするといいのよ、とシエタは語った。
 ――そういうふうにしておけば、終業後の会社に潜り込んでも見つからないから。
「シエタさん、やり口がずいぶん過激じゃない? 下手しなくてもイェナの妹でも通じそうなのに」
「だからです」
 とイェナは肩をすくめた。
「母は子どもにしか見えなくて、閑職もずいぶん経験したそうですよ。舐められないためならなんでもしてやるって、口癖みたいでした」
 その結果として、シエタは技術主任の地位を獲た。収入はそれなりにあったから、イェナは生活に苦労をしたことがない。私生児であり、娘であり、キャリアであることを隠さねばならない。――そんな子どもに人並みの生活をさせてきたシエタは、おそろしく強かな女である。
 イェナは彼女を怒らせたことはないが、怒らせるべきではないなと自覚を新たにした。居並ぶカメラはすべて正常稼働を続けている。
 イェナとロズが歩き出すと、カメラのレンズが人を追って動き始めた。モーター音が高くなる。怯えたようにロズが袖をつかんできたが、イェナはそれを無視した。あくまでまっすぐに歩を進め、受付カウンターのなかに入る。
 町はちがっても、ライブラリーの大まかな作りはドロッセルと共通だ。地下書庫に続く扉は受付のなか、人目なしでは入れない場所にある。
 イェナはそれをよく知っていた。
 ある夏の日、日差しの入る読書スペースで本を読んでいたイェナを哀れんで、受付嬢がそこに入れてくれたことがあったのだ。だからイェナの歩みには迷いがない。
 地階に続く扉の番号式ロックは、適当な四桁で口を開いた。
 扉を開くと乾いた空気が漏れてくる。思わず目を細めながらなかを見ると、短い階段が続いていた。蔵書保護の観点からか、明かりは一切ついていない。監視カメラの緑のランプだけが、内側の広さを示す手がかりだった。
「これ」
 後ろをついてきたロズが、細いペンライトを渡してくれる。
 イェナがまじまじと顔を見つめると、彼はおもむろに肩をすくめた。
「フナムシには触ってないから」
 つまりはフナムシ観察用のライトなのだろう。イェナは溜息をひとつこぼして、それを右手で受け取った。
 細い明かりを頼って階段を下る。降りた先の廊下は複数の部屋に接続されている。
「たぶんこっち」
 行き先に迷うイェナの横を滑り抜け、ロズは迷いの薄い足取りで歩き始めた。
「わかるんですか?」
「図書館の分類法は国ごとにかわったりしないからね。君だってファルケで苦労したことないだろ」
 なるほど、言われてみればたしかに苦労した覚えはない。大学の資料館も、ドロッセルのライブラリーも、本の分類はかわりがなかった。
「建屋そのものがよほど変な形じゃなきゃ、置き場もだいたい似るもんさ」
 言いつつ、ロズは扉のひとつの前で足を止めた。ついで深々と息を吸い込み、番号式ロックのキーを押す。同じ数字をよっつ。ぴんと高い電子音に続けて、鍵の回る音がした。
 シエタが鍵を無効化してあるところを見るに、ロズの〈勘〉は正しかったようだ。
 開いた扉の向こうには、あまり多くの本棚がなかった。なかから本をひとつ取り出し、ペンライトの光を頼りにページを開く。そこにあるのは渦巻きに似た模様と、哀れな犠牲者に似た奇妙な文字たち――コードだ。
「読めそう?」
 と尋ねられたので、首肯を返す。
「僕はぜんぜん駄目だな。竜が呼べそうなやつに特有の文字とか、ある?」
「微妙です。でも、シンプルなやつほど注意しなさいって、辰砂が」
 簡素な図案で示されるコードは、おおむねが竜を呼べるものだと聞いた。それを唱えて呼び出される竜は、大半が三対の翼を持つ竜であるという。三対の翼を備えた竜は、得てして強い。
 それと契約できるキャリアは限られる。せいぜい二柱の竜と契約できるに過ぎない(そして先代は一柱まで落ちぶれた)家のキャリアでは、試みるまでもなく契約できない。――契約の失敗がキャリアにもたらすのは、すべからくキャリア自身の死である。
 イェナはすこし考え、父のメモ帳をロズに渡した。
「これが辰砂のやつです。似たやつを探すか……」
「端書を参考にするしかないね。わかった」
 それから、とイェナは息を吸い込む。唱える歌は慣れたもので、ただの一音さえもまちがうことはない。契約した竜の虫を可視化する、いつもの歌。
 聞く側のロズもまた慣れたもので、花虫の出現にも驚くことはない。そのはずだった。
「わっ」
 にもかかわらず、ロズは後ろへひっくり返った。その顔面と腹を踏みつけて、光るひよこが跳ねる。跳ねるというよりは飛ぶに近いほどの距離を、彼らははひと息に移動した。
「なに、ひよこの逆襲? シュレッダーがわりにしたせいか?」
 意外にも鋭い蹴爪が本棚をえぐる。
 ばらばらと落ちる木屑を目の当たりにし、ロズが震える声を上げた。彼を抱え起こしてやりつつ、イェナは首を横に振る。
 むしろ、あれは――
「痺虫のせいです」
 紫の目で見上げた先には、羽の生えたトカゲが数匹。辰砂よりもふた回りはちいさなそれをめがけて、本棚を蹴ったひよこが殺到する。
 対するトカゲが羽を広げると、ばちばちと不穏な音がした。帯電している。
 這々の体でロズが立ち上がったその刹那、彼がいた場所を電撃が打った。
 火花が散り、床が焦げる。焦げの匂いとともに殺意を感じた。対する花虫たちもまた、もうひよこの姿をしていなかった。なにとも知れない猛禽の姿を取り、猛然と痺虫たちを追っている。
「ここはまだアドラだろ。まさか上はファルケなのか?」
「国境の川がありますから、それはぜったいないです」
 勇士ばかりと謳われた花虫たちは、それからすぐに痺虫たちを捕らえた。おそるおそる近づいても、抵抗らしい抵抗はない。
 数でも力でも勝った花虫たちの拘束は強固だ。
 そうして床に押しつけられた痺虫たちは、その前足にちいさな板を抱えている。
「揮発性メモリだ」
 ごめんねとひとつ断りを入れてから、イェナはそのうちの一枚をつまみ上げた。
「かなり古いね。なかのデータ、全部かじられてるんじゃないか?」
「データを食べたりはしないと思うんですけど……」
 揮発性メモリは、電力供給なしではデータを保てないタイプの記録媒体だ。容量のわりに読み書きに必要とする電気量がすくないのが売りで、一時期は小型電池を組み込んだ携帯用メモリが流行ったと聞く。
 もっともそれも一時期のことで、ここ二十年近くはサーバーにデータを置いておき、通信でデータを取得する手法のほうが主流である。そちらが流行るにつれ、揮発性メモリと小型電池のペアはおそろしい勢いで駆逐されてしまったはず。
 だから、このメモリはほんとうに古い形式だ。
 さらには電源から隔離されている以上、なかの電池も死んでいるだろう。つまりはデータも消えている。
 でも、とイェナは思った。そっと端子のメッキをなぞる。
 ――痺虫たちはどうしてこれを抱えていたのだろう。
 そばには電子ロックもあり、監視カメラもある。電気を求めていたならば、そちらに群がるほうがまだ自然だ。
「まだデータが残っているかも」
 こんな不自然な現象は、竜がいなくてはあり得ない。
 そして、と思う。痺虫たちを統率し、従えることができるのは、雷竜たちをおいてほかにない。