52 Hz

 イェナがメモリを差し込むと、端末はそれを認識した。アクセスのコマンドを打ち込んでやると、ほどなくして記録ファイルが表示される。
 数はたったひとつだ。形式は映像。
 はやる心臓を押さえて開くと、画面には傷のあるコンクリートの壁が映った。はてとばかりにロズとふたりで首をかしげることしばし、この部屋の姿であることに思いが至る。
「あのへんかな。壁の傷が似てる」
 言ってロズが示した壁には、まっすぐな一条の傷がある。その向かいには整理された空き棚もあった。そこにカメラを置いて撮影すれば、ちょうどこの動画もどきと同じ絵が撮れるだろう。
「ねぇ、これは写ってる?」
 ロズの示したほうを眺めていると、唐突に端末から音声が流れた。あわてて見やった画面には、あいもかわらず壁の傷だけが映っている。
「映っているよ、安心おし」
 ふたつめの音声は、変声期を迎える前の少年に聞こえた。
「ほんとうかなぁ」
 と返される声は真逆に低い。変声期を迎えたあとの、しっかりとした男の声だ。
「なんか怪しくない?」
「疑るならば細君に任せてはどうだ。雷竜よりもよほどハードに詳しいぞ」
「シエタに秘密で買ったカメラだからさ、シエタに見つかったら大目玉だよ」
「なぜ買った」
「口にすると気恥ずかしいからなぁ。わかることまで聞かないで」
 シエタ。母の名前だ。
 イェナは食いつくように画面の縁をつかむ。ぎしりと鈍い音がして、液晶の隅がたわむように滲んだ。
「お父さんだ」
 カメラの外でばたばたと騒ぐ気配がした。やがてすっと伸ばされた手は子どものもの。それがカメラをつかんで、レンズを別の方向へと向けた。
 ぐるりと壁の位置がかわり、大柄な男の姿が映る。見たことのない人だった。
「このへんは編集? をしたら消えるんだよね」
「おまえが編集できればな。私見を言えば、触れずにおくほうが数段ましだと思う」
 カメラに触れた手が離れる。軽やかな足取りでレンズの撮影範囲に滑りんできたのは、声のとおりの子供の姿だ。金に近い色の髪をしていて、瞳もまた同じ色をしている。その瞳が見上げる先の男が屈み込み、ようやく彼の瞳もレンズのなかに映った。
 ――見慣れない紫の色。
 男はひとつ咳払いをしてみせ、レンズに向かって微笑んだ。
「シエタ、元気か? 君はもうメーヴェに行ってしまって、今も元気かどうかがわからないんだ。俺は見てのとおり、すごく元気だよ。辰砂と新入り君も元気にしてる。新入り君はまだ新入り君だけどね」
 視界の端から伸ばされたロズの手が、やんわりとイェナの袖を引いた。イェナははたと彼の顔を見上げ、それから指先の力を抜く。
 たわんだ液晶は戻らず、そこだけドットが欠けてしまっていた。
「君がこれを見るころには、俺はこの世にいないと思うけど。最後まで元気だったんだなって思ってもらえたら、すごく嬉しい」
「……縁起でもないことを」
 金の目の子どもが忌々しげにつぶやく。紫の目の男は苦笑を零して頭を掻いた。
「新入り君がね、なにがあっても後に残してくれるって言うからさ。つい子どもに顔くらい見せたくなっちゃって。声も知らないのはなんだか悲しいし」
 新入り君と呼ばれているのは、十中八九、金髪金眼の子どもだろう。年ふりた声で喋る辰砂とはちがう、新入りの竜。その体を彩る色は、どれも火竜らしからぬ色をしている。火竜はみな、もっと赤みの強い色を帯びているはずだから。
 ――雷竜。イェナはそう確信した。
 痺虫を使って揮発性メモリを守らせた張本人。ここアドラにおいてはあらざるべき者。
「こうしてちょくちょく記録は残すから、見つけたら子どもに見せてあげて欲しい。生きて帰ったときは、きちんと自分で処分する予定です」
 お父さんが銀朱と契約できなかったのは、このせいだったのだ。容量が足りなかったのではなかった。お父さんは最初から火竜だけを信奉していたわけではなかった。メーヴェと同じ、ドラクマ派のなかの異端だった。
 だからこそ、国境の小競り合いなど行きたくなかったのだろうと思う。心の底から、一片の余地さえもなく。――お父さんはサプレマに許されたかったのだと、辰砂はしきりに語っていた。
「わたし、どうして……」
 なぜ、あのとき無理矢理ユーレへ行かなかったのだろう。
 ひとたび喪われてしまえば最後、もう二度と訪れることは叶わないのに。
「ユーレのことなら、安心していいんじゃないか」
 またばたばたとカメラを止めるふたりを見ながら、ロズはそう言って笑った。
「ナハティガルから逃げたって話だろ、サプレマ。僕が思うに、アドラは自分の心配をすべきだ」
「そう。そうですね、きっと」
 洟を啜る。涙も袖口で拭ってしまえば、あとはひとつも溢れてこなかった。楽観的なものだと自分でも思う。応じるロズはひとつイェナの頭を撫でてくれた。
 その指に絡んだ髪めがけて花虫が飛んできたのは、それからすぐのことだった。

 残りのメモリも確認しよう、と言う話になった。もしかしたら動画にコードが残っているかもしれないし、コードそのものでなくとも、なにかヒントになることが録画してあるかもしれない。
 早回しで映像を再生しながら、イェナは花虫たちに髪の毛を与えた。あいかわらず猛禽の姿をした花虫たちは、ひよこに戻るつもりはなさそうだ。おそろしく鋭い嘴で、与えた毛髪を引きちぎりながら食べている。
「辰砂に会ったらどうにかしてもらわなきゃ」
 よしんば彼らが直接髪を毟りにきたら、痛いでは済まない事態になるだろう。よくて頭皮ごと、悪ければ肉ごと持っていかれる。
 困ったなぁとつぶやくイェナのかたわらで、ロズが最後のメモリを端末につないだ。
「お。これは新入り君だけだな」
 動画には、ごくたまに辰砂も映っていた(堂々たる威厳に満ちた老人の姿は、大いにイェナの度肝を抜いた) 。彼の出現は珍しかったが、イェナの父が映っていないのはもっと珍しい。むしろ、ここまで皆無だった。
 ロズはおもむろにボタンを操作し、再生速度を等速に戻す。
 地下書庫の壁を背にした雷竜は、ゆっくりとした語り口で切り出した。
「動画はこれで最後だ。マスターは戦争に行ってしまったからな」
 それでも彼がここに映っているということは、契約がまだ続いていることを示す。
「わたしもあいつとの契約を切ることになっている。記録のためと言い含めて、ここに残させてもらったが」
 その事実を裏取る言葉とともに、竜は薄い肩を落としてみせた。
 竜とキャリアは精神を共有するが、なにもかもが混ざるわけではない。秘密にしておきたいことは秘密のままで、差し障りのない範囲だけを共有することができる。それを含めて考えるに、なっているとはつまり、解約する気がないということ――
 またたくイェナの眼の前で、竜はゆっくりと微笑んだ。
「これが再生されているということは、おまえは我らの言葉を継いだということ。辰砂殿とはそういう約束だった」
「辰砂って、あの辰砂だよね」
 ロズの問いに、たぶん、とうなずく。竜の名前は固有ではないが、同じ名前の竜が身近に二柱いたとも思えない。母から伝え聞く父の生家は歴史も古く、竜の名前も近隣に伝わっていたはずなのだ。
 あの辰砂が雷竜と約束をした。その驚きに息を飲むのを見て取ったように、雷竜はしばらく口を噤んでいた。やがてかすかに首を引き、
「そのあたりの事情は辰砂殿に聞くがいい。哀れな雷竜からだと申し出れば、回答を拒否することもあるまいて」
 と言う。
 録画された映像であることを理解しながら、イェナは深くうなずいた。
「――わたしはとある研究に関わった最後のひとりでね。一から竜を作るために、一から生き物を作るという名目の研究だった」
 竜の指先がみずからの頭を示す。
「人間も、ほかの生き物も、微細な信号のやりとりで心を作る。神経細胞をシナプスでつなぎ、伝達物質の放出で行うやりとりだ。意味がわかるか?」
 知識としてなら、知っている。
 神経は無数の細胞から作られるが、細胞はひとつでは意味を成さない。シナプスと呼ばれる接合部で互いをつなぎ、必要に応じて伝達物質を送り合う。というより、ひとつの神経細胞が次の神経細胞に伝達物質を送り込むと、次の神経細胞がさらに次の神経細胞に伝達物質を送る。そうして伝達が網のように走り回り、それが精神と呼ばれるものに変じる。
 喜怒哀楽も苦痛も、なにもかもが仕組みは同じだ。どの神経細胞がどこになにを伝えるかも決まっている。仕組みだけを取り出して考えるなら、生き物の脳はシンプルなのだ。
「わからずとも深く考えなくてかまわん。複数の受け手が存在し、情報のやりとりをする手段さえあれば、魂を――精神のレプリカを作ることも容易いとだけ思うがいい」
 人、もの、ネットワーク、動物たち。思い浮かぶものは山のようにあった。そのどれかを断続的に行うことができたなら、そこに心が宿るのかもしれない。
 金の髪の雷竜は笑みを深め、然りと言った。
「おまえが想像したとおりだよ、イェナ。わたしたちは脳を模し、精神を作り、それを殺して竜を作ることにした」
 それから彼は息を吸い、
「わたしたちは」
 と声色を低めた。
「音を使うことにした。ネットワークはほかからの介入が怖かったし、光は観測がしやすいからな。とはいえ、音も観測しやすいという意味ではかわりがない。ゆえに研究者たちはその筐体を海底に沈めた。完全に独立し、孤独であることが一等の条件であったから」
 孤立し、孤独であること。
 そういった意味において、あの遺物はぴったりと条件に当てはまっていた気がする。
 珊瑚が集った躰体にはケーブルのひとつもなく、陸から完全に切り離されていた。外部からのアクセスを防ぐための、理想的な構造体。そこへエネルギーを供給する術として、雷竜はさぞかし理想的なソースだったにちがいない。
「海の知性生物と交信できることも好ましくなかった。具体的には鯨偶蹄目。わたしたちはあれらの使用言語を研究し、使用する周波数帯が被ることも避けた。――避けたはずだったのだがな」
 雷竜は一度だけ金の目を閉じた。
「結果から言うと、実験は失敗した」
「失敗?」
 出し抜けにロズが素っ頓狂な声を上げた。それに出鼻を挫かれて、イェナは驚愕の声を上げる機会を喪う。
「あれは誰とも交信できないように設計された。おかげで発生した問題は、この世に同じ生き物がいたことだった」
 深々とした溜息。続けて竜は瞼を開いたが、レンズのほうを見なかった。金の瞳ははるかに下を彷徨い、再度の溜息によって持ち上げられる。
「あいつは誰ともちがう音階の歌を使う鯨だった。……わたしたちは海にたったひとりの話手を作ったつもりで、実際は同じ言葉の話手を呼び寄せてしまったわけだ」
 イェナはなにも言わなかった。
 かわりに、ただひとり海に揺蕩う鯨を想う。同じ意識を共有することをせずとも、その孤独は痛いほどに分かった。イェナが同じ立場であったなら、なにをおいても仲間を捜して海を游いだ。
「完璧な鯨凹歯類との隔絶が、それによって証明されたのは皮肉というよりあるまいな。とはいえわたしは、くだんの鯨がひどく憐れでね。彼女が死ぬまで、ずいぶんな無理を重ねてあの機械を守ってきたのだ」
 わかるか、と雷竜は言った。
「あれとあの鯨は比翼連理――この世で言葉を交わせる唯一の生き物だった。だというのにあの鯨と来たら、竜にかわった途端に言葉をまるごと忘れてしまった。とんだ恩知らずだよ」
 竜が守ってきた機械がひとたび起動すれば、それこそあれは孤独のさなかだ。仲間を求めて海を往くこともできず、返ることのない言葉を語るだけ。
 竜はみたび溜息をつくと、画面の下方に向かって姿を消した。やがて居住まいを正して現れた彼は、ずいぶんとカメラに近い位置にいる。
「わたしの心残りは、このままでは永久にあのふたりが見えることがないこと」
 伸ばされた指がカメラの側面を叩く。映像が揺れ、一瞬だけ画面が白く光った。
「とはいえ、わたしにはあれを破壊する力がない。辰砂殿も、銀朱殿も無理だと仰った。ゆえにわたしは、おまえにこのコードを遺す」
 ふたたびディスプレイ上に姿を見せた雷竜は、ほどなくまた下方へ姿を消す。カメラを置いている棚に背丈が足りていないのだ。無理を重ねて、という言葉が実感とともに蘇る。
「分類は水。単位は今のわたしと銀朱殿を合わせたものよりやや多い。あれを完膚無きまでに破壊するだろう」
 聞こえてくるのは声ばかり。映したもの以外を記録しないカメラのこと、ディスプレイをのぞいてもその姿は見出せない。そのくせ、口許を歪めるイェナの姿を見透かしたかのように、記録のなかの竜はひらと手を振った。
「これを調べるだけで、おまえの父親にはずいぶんな苦労をかけてしまった。すこしくらいは仕事を手伝ってやらねば、それこそ火竜どもに会わせる顔がないというもの」
 鼻白んだように首を引くと、笑い声さえスピーカーから聞こえてくる。
「もののついでだ。シエタ嬢には申し訳なかったと伝えておくれ。辰砂殿……はまだ契約が続いているな。こちらには自分で伝えるよ」
 振られていた手がレンズに被さった。電源を捜しているのか、がさがさとちいさな騒音ををマイクが拾う。やがて端末の上に闇が降りる前、雷竜はささやきに似た声音でイェナを呼んだ。
「苦労をかけるな。すべてが無事に終わるよう、過去のなかから願っている」
 再生の終わった動画ファイルを閉じ、イェナはもう一度メモリにアクセスした。再生していたファイルの真横、なかったはずの画像ファイルが現れていた。呼吸を整えてなかを開けば、シンプルな渦巻き模様が目に飛び込んでくる。
 コードだ。――分類は水。辰砂よりも、銀朱よりも、これを遺した雷竜よりも強い。とはいえシンプルに見えるのは表面だけで、虫食いめいた文法の荒も目立つ。そのぶんだけ実際には複雑で、強すぎるというふうにも見えない。
「外に行きましょう」
 ディスプレイの明かりを絞り、イェナはゆっくりと息を吐いた。
「外で呼ぶつもり? 目立つんじゃないか、さすがに」
「しょうがないでしょう。ここで呼んだら先輩は死にますよ」
「死ぬんだ」
「圧死は苦しいと思いますよ」
 水竜の躰はひょろりと長かったが、それでもイェナよりは胴が太かった。
 質量を持って現れれば最後、本棚と備品を薙ぎ倒し、十全に収まりきらない肉体がロズを壁に叩き付けるだろう。契約をしたイェナはおそらく守られるが、それでも万が一ということはある。
 圧死かぁとぼやくロズを連れ、イェナは地下書庫を後にした。扉を潜った背中に当たるのは、鍵の回る軽やかな金属音。それに対して、ロズはひどく驚いたようだったが、イェナはさほど気にしなかった。十中八九シエタの仕業である。
 正常稼働を続けている監視カメラの下を抜け、最後にカメラに親指を立てて示す。
 ドロッセルから娘の動向を見守っているはずの母は、それですべてを悟っただろう。

 召喚の場としてイェナが選んだのは、それでもナハティガルの外だった。
 重々注意してロズとの距離を空け、ディスプレイの輝度を元に戻す。呼び出す対象のことを思い描きながら、ごくゆっくりと最初の一音を舌に載せた。コードを表す文字は、ひとつひとつが音と音階を持つ。それを辿って歌う歌は、楽譜を読み解くよりもシンプルだ。
 被さるように鈴の音がした。無意識に閉じていた目を開き、イェナはそこに竜の姿を見い出すに至る。彼女はあいかわらずひょろりと長い体躯をしていた。
 その尾がロズにぶつかりそうになっているのを認めて、下がるようにと手振りで示す。
「わたしを見つけたのだな」
 鼻面を寄せ、水竜は笑った。ガラス質の鱗が揺れ、唱和するように鈴の音が拡散する。
「あなたのコードを遺していった方がいました」
 体躯の長い竜のことであるから、頭の位置もそれなりに高い。彼女の目に映るようにと端末を掲げながら、イェナはにこりと微笑んだ。よろしければ、と切り出す。
「わたしの考えをお話ししても?」
「許す。聞こう」
 うろうろと彷徨うロズを憐れに思ってか、水竜はぐるりと蜷局を巻いた。それが話を聞く姿勢を兼ねていることを悟り、イェナは安堵とともに口を開く。
「あなたが生まれたあと、あなたを研究する人はいなかったのではありませんか」
 竜は首肯した。
「おかげであなたは自分の力を知らなかったのですね。それを思うとどうしても契約には踏み切れなかった。契約に失敗したキャリアは、基本的には死にますから」
「エラスムスはそこまで遺していたのか?」
 蛇によく似た顔つきは、表情の如何をうかがわせない。けれどもイェナの考えが正しければ、彼女はたしかに苦笑を滲ませたようだった。
 ゆらゆらと尾の先が揺れ動き、やがて乾いた土を擦る。そのさまを見届け、イェナは顔ごと上を――竜の青い目を見つめた。
「残念ながら。でも、あなたが誰となら契約できるかは聞きました」
 竜もまた下方を見た。碧玉と同じ色彩の目がすと細められ、イェナは彼女に瞼があることを知る。生前は鯨だったという話であったから、癖で作った瞼なのかもしれなかった。それをのぞき込みつつ、イェナは端末の横から顔を出す。
 ひとつ、力強く胸を叩いた。
「わたしです」
 竜はわずかに目を眇めた。
「父君の火竜がうるさいのではなかったか?」
「さいわい彼はユーレへ行っています。今ならとやかく言われません」
 そして、とイェナは語気を強める。
「なによりわたしが、あなたの手でマグヌム=オプスを壊して欲しいと思っています」
「なるほど、そうか」
 竜は蜷局を解き、四肢のかわりに翼を広げた。
「このわたしにあいつを壊せと。おまえはそう願うのだな」
「そうです。あの子はきっと、あそこで眠っているだけなので」
 あの珊瑚の塊を指して、パヴェルは〈卵〉と言った。今はイェナも同じことを思う。
 珊瑚の裡に眠る遺物は死ぬこともなく、ただただあの場で眠っているだけだ。唯一の観測者を失った今、命としての価値を顧みられることもない。いずれ来るかもしれない孤独を待つばかりの、殻に篭った竜の胚。
「昔、おまえと同じことを言った竜がいたよ」
 イェナの脳裏に、黄金の色が閃いた。
「まぁ、ほんとうに死んでしまった竜のようだがね」
 色の明滅に合わせて頭痛がした。目の前がちかちかする。またたいた瞳に映る翼は透明だが、それを通して見える星明かりは夜光虫の色だった。昼日中の光合成を支えるクロロフィル誘導体、渦鞭毛藻類のルシフェリン――
「退がり損ねてたらこれ尻尾で圧死してたよね、僕」
 苦情とともに駆け出したロズは、竜の周りを大きく迂回して近づいてきた。
「寝覚めが悪いからそんなことはしない」
 竜は地面に尾を叩きつけた。その勢いで飛んだ小石を認めて、ロズはそそくさイェナの背後へ隠れる。振り返ってみると、彼の怯えた瞳は竜のほうに向いていた。竜の身じろぎに合わせて視線が動くので、あからさまに偶然の結果ではない。はっきりと見えている。
 額に浮いた脂汗を拭い、イェナは大きく溜息をついた。
 洋上でもないのに潮騒が聞こえる。それが自分の血流の音であると気づくまでに、ずいぶんと長い時間がかかった。
「わたしは今からあの島に戻るよ、マスター。いっしょに行くか」
「行けますか。いや、行けそうですね。行きます」
 第六感とも別の感覚が、余裕で行けると騒いでいる。それに惹かれるように踏み出した足取りには、たしかに奇妙な高揚感があった。
「いや、全然だいじょうぶには見えないですよ。完全に千鳥足ですって、この子」
 ロズの声は上から聞こえた気もしたし、下から聞こえてきた気もした。
 竜の胴に座り込んだ姿勢でもって、イェナはへへへと笑う。声の聞こえ方は気持ちが悪いが、気分はひどく高揚していた。
「先輩がいっしょに来てくれてもいいですよ。行けますよ」
「……ほんとうに?」
 訝る声には、竜とともにうなずいて返した。
「精神を共有するんだって話は聞いてたけどさ。君たち、なにか変なところがつながってたりしない?」
「わかんないです。ほかの竜と付き合いがないので」
「付き合い……付き合いかあ。重症だな」
 ロズはおもむろに肩を落とし、竜の背中に跨った。ついでにイェナの両肩をつかみ、ぐいと抑えて前を向かせてくる。
 竜はからからと笑みを零して、伸ばした翼で空を打った。
 鼻先を濃い潮の匂いが掠め、冷たい風が吹き抜ける。楽しいな、とイェナは思った。楽しくて、幸せだ。
 潮の匂いの風をまとって、水竜は空へ舞い上がった。眼下に広がる景色は奇妙に歪んでいる。海霧で姿を隠しているせいだ。それを透かして星を見ながら、竜は一直線にみずからの住まいを目指す。
 やがて東の空に茜が指すころ、彼女は陸に横たわった〈卵〉を見た。あたりに人影はひとつもない。パヴェルはうまくやってくれたようだ。
 その事実に感謝しながら、イェナはおそると手を前に伸ばした。指が触れた先から、白く凝った霧は文字どおりに霧散する。思い切って払ってみると、霧は残らず虚空へ消えた。そうして見える浜辺はきらきらと光って、珪質の存在を如実に示す。
 水竜は長い首を巡らせて、ほかのものを見ているようだった。人、とささやくような言葉を聞いた気がして、イェナは竜のほうへ意識を向ける。
「大学の連中はいないけど、やるか?」
 いくばくかひそめた声でもって、ロズはそう尋ねてきた。ちいさな声ではあるものの、そこには嫌悪に似た色が滲んでもいる。
 どうやら彼は浜辺で軍人に追われたことを覚えており、恨みを抱いているようだった。
「やりますよ。巻き込んだら面倒だとは思いますが……」
 夜の色を薄めた空を泳ぎつつ、水竜は眼下の人影を数えている。しょせんは接収にきただけの人員であるから、さほどの数ではなかった。装備の面においても、竜を制圧できるようなものではない。
 工兵だよと脳裏で返してから、イェナはロズのほうを振り返った。
「まぁ、頭から海水を被るくらいは巻き込んだ内には入らないでしょう」
「同意する。シャワーの水が足りないのは事故だよ、事故」
 うなずいたのは水竜である。ついで彼女は翼を翻し、歌に似た抑揚の咆哮を上げた。
 矢庭に応えを見せたのは、海だった。赤みを帯びた海面が渦を巻く。浜辺に出てきた人の動きが止まる。遠くなにかの快哉を聞いた気がしたが、イェナも、竜も、等しくそれを意識のなかから締め出した。
 そして、竜は大きく尾を振る。ガラス質の鱗の縁が、飛沫よりも白い光をあたりに散らした。その下方でぐらりと揺らいだ海面は、砂浜の上に一条の爪痕を残してゆく。
 ――飛び散った砂を防ぐために、イェナは海霧を呼び直さなくてはならなかった。
 鱗に覆われた竜は悠々としたもので、背中に乗せたふたりには注意もくれない。砂を噛んだと漏らすロズに対し、イェナもまたおざなりな謝罪を返した。苦情はいまだに続いていたが、無視を決め込んで首を巡らす。
 海霧の向こうに目的のものを見つけたのは、竜のほうが先だった。羽ばたきひとつで霧を散らし、砂浜めがけて降下する。
 浜辺の人的被害が見えてきたころ、水竜はそっと姿を変じた。全身打撲と内臓破裂と複雑骨折と外傷性ショックで死ぬ、とやけに冷静な悲鳴を上げるロズを抱えて、イェナは砂上に降り立った。遅れて砂浜に舞い降りた竜は、物珍しげにロズを見て、それから周囲の人々を見やった。
「おまえたちの欲した玩具は真っ二つにしてしまったが。残骸でも持って帰るかね」
 竜はすいと小首をかしげた。青い瞳が見やる先には、濡れ鼠になった軍人たちの姿。それに紛れるようにして、大学の面々も砂浜に姿を見せつつあった。
「高水圧で切ったから、なかにもだいぶ水が入ってしまっていると思う」
 竜の言葉に、誰もが口を噤んだ。――正確にはただひとり、見知らぬ学生に両腕をつかまれた教授以外は。
「使えもしないものを持って帰るのか、え? 自分たちは無能ですと、馬鹿正直な報告書を書けるのか? 今日は質疑応答時間じゃないんだ、答えてもらうまでは黙らないぞ」
 パヴェルの腕をつかんだ学生ふたりは、うんざりした様子で顔を見合わせた。そして両者ともに黙ったまま、示し合わせたようにつかんだ腕を解放する。砂浜に降ろされたロズがあわてて駆け出し、パヴェルの巨体に縋り付いた。
「教授、ほかの研究室の連中だって体面がありますから。一朝一夕で結論なんて出せませんし、出てもひっくり返されるのがオチですよ。大学に連絡するところから始めましょう」
 大学で一番凶暴な教授を御すことに関し、ロズの右に出るものはいないのだ。放たれたパヴェルはしばし息を荒げていたものの、やがてはロズの懇願に応じ、鉾を収めることにしたようだった。
 浮き輪のような腹を揺らし、彼はまっすぐイェナの近くへやってきた。そのままイェナの横をすり抜け、後方へ。そこに佇む水竜は、珍獣を見る心持ちでパヴェルを見ていた。
「君なら僕の気持ちをわかってくれるでしょう」
 言って、パヴェルは竜の手をつかむ。厚い脂肪に鎧われた手はひやりとして冷たく、同時に儚げにぐんにゃりしていた。全体的にはふやけた水死体によく似ている。
 思わず身震いするイェナをよそに、竜はにこりと微笑んだ。
「もちろんだとも」
 と彼女は言う。
「わたしはこの近海が住まいでね。遺物を持ち出すつもりなら、このわたしに断ってもらわねば」
 異を唱える声はなかった。

 ――ならば早晩、卵の殻は海へと還る。