400 kHz

 シエタが連絡を取ってきたのは、数日後の昼下がりのことだった。ディスプレイのなかに現れた母は、化粧を決めた顔で晴れやかに笑う。
「クーデターですって。現政権崩壊、ユーレへの派兵も国境沿いに出張っておしまい。あんたも無駄骨折ったわねえ」
 浜辺に持ち出した椅子に座り込み、イェナはほんのりと肩をすくめた。――波の上を行き交う海鳥が、高い声で鳴いている。
「そういうお母さんは、またナハティガル経由でつないでるの?」
「ううん、正規回線でつないでるのよ。お母さん、今はナハティガルにいるの」
 おや、と首をかしげる。
 ネットワーク越しにだいたいの作業を済ませるシエタが、わざわざ現地入りとは珍しい。
 ナハティガルのクライアントが相手なら、普段はミーティングすらネットワークを介すはずだが――そんなイェナの疑問を読んだように、シエタはふふふと声に出した。いたずらめいた笑声に前後して、マニキュアを塗った指がカードをつまんだ。
 レンズに近づけられたその表面には、セキュリティ本部対策部部長なる金文字と、軍の徽章が燦然と輝く。
「ナハティガルの軍事ネットワークに侵入したハッカーがいてね。お母さん、それを捕まえる仕事をすることになったんだよ。大出世だあ」
「ふーん。へー。すごいねえ」
 マッチポンプだ、と呆れ返った声が聞こえた。イェナの頭のなかに起因する、忖度のない声である。
 イェナは画面に集中し、続くはずの声を意識から追い出した。声はあえて追い縋ることをしない。余韻のように楽しげな気分を残し、イェナのなかから離れていく。
 彼女が言ったとおり、シエタの出世はマッチポンプだ。侵入したのもシエタで、それを取り締まるのもシエタ。侵入者が親玉として君臨してしまった以上、後続の侵入者はなかなか現れないだろう。きっとシエタの評価はうなぎ登りだ。未来はとても明るい。
「疑ってるでしょ。ほんとうにいたのよ、侵入者」
 シエタは唇を尖らせる。イェナはただ肩をすくめて、それが誰であるかを知らないふりをした。
 けれども、そうじゃなくて、とシエタは言う。
「公共ネットワークにいろいろ機密を流した馬鹿がいたの」
「馬鹿」
 果たしてそれはほんとうに馬鹿なのだろうか。
「クーデターの成功はそいつのせいじゃないかって話でねぇ。前の部長はおかげさまでクビになっちゃんですって」
 イェナは喉を鳴らした。度胸も、行動も、技術も、どれをとっても馬鹿の所業には思えない。それを表現する言葉は山のようにある気がしたが、そこから適切な語句を選ぶ自信は欠片もなかった。
 それをして馬鹿と言い切るシエタのことが、今はすこしだけおそろしい。
「もしも次に入ってきたら、お母さんが一気に焼き切ってやるわ」
 果たしてなにを焼き切るつもりか。疑問に思いはしたが、イェナはそれを尋ねない。
 馬鹿と天才はいつでも紙一重だ。
 彼らのあいだに潜り込もうとした凡人は、紙一枚の厚みになるまですり潰される。
 なにかを叩く真似をするシエタに別れを告げ、イェナは端末の電源を落とした。いつかはすり潰されてしまうにせよ、そうなるべきは今ではない。

 卵の殻を海に流したその日から、水竜はイェナとのあいだに物理的な距離を置いた。話そうと思えばいつでも話せるから、というのが理由らしい。本人の口から聞いたわけではないが、イェナはそれを了承していた。
 当の水竜自身は、あれから雛鳥よろしくパヴェルについて回っている。
 パヴェルは水竜の能力をよく理解し、ものの見事に夜光虫の群れを散らした。赤潮は跡形もなく消え、かわりにどこからともなく魚がやってきた。それを食べるイルカや海鳥が集まり、島の周囲は急に賑やかさを増しつつある。
「パヴェル教授!」
 名前を呼ばわる声に応じ、パヴェルは風のような速さで岩礁を抜けてくる。
「なになに」
 と尋ねる顔は満面の笑みだ。
 彼もまたイェナにとっては紙一重の一因だが、この笑顔にはついつい毒気を抜かれそうになる。よくないな、と意識を引き締めるのは毎度のことだ。
 子どものように無邪気で、好奇心に溢れた顔をしていても、この男は退官間際の老獪な教授なのである。あの日、イェナは身をもってそれを知ったばかりだ。熱さは喉元も過ぎていないし、舌の根もまだ乾いていない。
「わたしの竜はいっしょにいませんか?」
 問うと、パヴェルは素直に岩場の向こうを示した。
 合わせて目線を投げれば、岩畳に支えられた一枚岩がある。そこにどっかりしゃがみ込んだ水竜は、いたくまじめな顔をして、ロズと顔をつき合わせているところだった。
 一滴、一滴、一滴。繰り返し念じる声が聞こえてきて、イェナはふたりの作業に察しをつける。プレパラートの作成だ。海水中の微生物を観察するプレパラートは、スライドガラスに一滴だけ海水を落とし、カバーガラスで押さえ込んで作る。竜にとっては雫を落とすのが難しいのだろう。
 その影響を受けていませんようにと、イェナはアドラの火竜たちに祈った。
「髭で濾せばいくらでも取れるというに。人間どもは面倒なことをする」
 青い髪の女は歯軋りをした。
 彼女と同じ一枚岩に登りつつ、
「やっぱり典型的なヒゲクジラですね」
 とイェナは言う。
「あー、うん、そうだね。ヒゲクジラだ。喋るって話だったから、てっきりハクジラかなと思ってたけども」
 顔を上げたロズは眩しげに目を細め、それからまた水竜のほうに顔を向けた。
 水竜の細い指先は、パスツールピペットのゴムキャップを親の仇のように平たく潰している。吸うにも出すにも向いた持ち方ではない。イェナは膝をついてしゃがみ込むと、そもそもの持ち方からして説明してやった。
 にわかに笑うような気配が伝わってきて、イェナはまじまじと水竜の顔を見る。
「楽しいですか?」
 問うと、
「とても楽しい」
 抑揚に欠けた声音がそう答えた。いくぶん扱いやすい持ち方をされたピペットの先が、汲み上げた海水にぽちゃんと沈む。
「ならよかった」
 赤潮を散らした水竜の近頃のご執心は、こうして研究室の仕事を手伝うことだった。
 ――攻撃を検討していた事実をひた隠すため、軍が島を去って久しい。そのわりに連絡船はロズとイェナが持ち逃げしてしまったので、フィールドワークという名の半遭難はまだ続いている。そのうち救助が来るはずだが、情勢がなんのかんのとうるさくて、今しばらくはファルケへ帰れそうになかった。
 それに対する苦情の一切が出ないのは、この水竜への恐れも一因だろう。もっとも、さらに根本的な原因はパヴェルにある。
 ごちゃごちゃ言うんだったらあれもこれもそれも全部理事会にぶちまけてやる、と暴れたパヴェルは、今回の一件でだいたいの研究室(および国外の大学)に恐怖政治の魔手を伸ばした。辛くもそこから逃れ得たのは、そもそもフィールドワークに参加しなかった幸運な研究室だけである。
 軍が置いていった物資が消えるころには、パヴェル御一行は大陸に凱旋し、さらなる権力を求めて侵略を開始するだろう。その行く末がどうなるかは、もはやイェナの与り知らぬところとなる。
「ねぇイェナ君。この子、やっぱりうちの研究室に置いておいてよ」
 何度目とも知れない請願は、岩畳と波の間から。
 見やれば、移植ゴテを手にしたパヴェルが年甲斐もなく唇を尖らせている。
「一回はアドラに連れて帰りますよ。会って欲しい人もたくさんいるので」
 たとえばシエタ。それから近々帰ってくるはずの辰砂。もしかしたら見えるかもしれない銀朱。あとは端末にコピーした映像のなかの面々。それらの人々と会うために、イェナはひとまずファルケには帰らないと決めていた。最短の距離でアドラへ帰り、そのあとは休学を取るとも決めている。
 パヴェルにも、ロズにも、すでに話した考えだ。
「竜を置いていってくれるだけでもいいから」
 にもかかわらず、パヴェルは一向に納得する気配を見せない。心底うんざりするイェナの横から、水竜は黙してパヴェルを見つめていた。
「うちの研究室、誰かいないと取り潰しになっちゃうんだよ。僕ひとりになっちゃうし」
「心配しなくてもだいじょうぶですよ、教授。来年は僕が博士課程に進みます」
 言いつつロズが一枚岩を降りる。彼はそのまま教授の袖をつかみ、ずるずると浜のほうへ引きずっていった。残された水竜の不安を感じて、イェナはちいさく苦笑した。――さいわいにして、イェナの頭にもプレパラートの作り方は入っている。
「ほんとうにおまえはキューガクするのか」
 その記憶を辿りつつ、竜はいくぶん不安定な手つきでもって、ピペットに海水を吸い上げた。キャップを軽く押して空気を抜き、次にガラスの上へ雫を滴下する。震える手でカバーガラスを載せるまでを見届けて、イェナは深く息を吐いた。
「あいつを探しに行かないといけませんからね。ファルケは内陸で、海にいるかもしれない竜を探すのには不向きですから」
 ふたたび海の底へ沈んだ〈卵〉の殻は、いくらのぞき込んでも中身が出てこなかった。待てど暮らせど、陸に登ってくる竜もいなかった。
「探して、見つからなかったらどうする?」
 プレパラートを光に透かして、竜はそんなことを問う。イェナは岩場を見つめる目をつと細め、どうしましょうかとつぶやいた。
 同胎のきょうだいはいない。水の生き物であり、陸の生き物である。泳ぐ。音を聞く。厚い氷の記憶。呼吸をする。寒さに強い。視覚がある。明暗を知覚できる。瞼がある。群れを作らない。言葉を使う。色がわかる。――遠退きつつある記憶を辿って、ふと息を吐く。
「ヒゲクジラは回遊する生き物ですし、向こうもあなたを探しているかも。とりあえず世界の隅から隅まで探してみて、駄目ならそのときに考えましょう」
 首肯し、水竜はプレパラートを岩の上に置いた。次は試料の入ったビーカーを手にし、光に透かして内容物をたしかめる。いっぱしの研究者然とした横顔には、一度だけ見た雷竜の面影があるように見えた。
 イェナは細めた目でビーカーを見上げ、浮遊物のひとつを指差す。
「見つからなかったら、あなたこそどうするんですか?」
 水竜はすかさずビーカーにピペットを突っ込み、示された浮遊物を吸い上げた。ずいぶんな自信で余計な捨て、吸い上げたばかりの浮遊物までビーカーの外に零す。ついでに残りの水まで吐き出してしまってから、彼女は青い目をまたたかせた。
「どうもしないよ」
 なぜそんなことを聞くのかと、ひどく不思議がる気配。
「わたしとあいつは、ふたつでひとつだったんだ」
 イェナは目を瞠った。――けれども、それはなにも不自然な話ではない。
 ヒゲクジラは明暗を見分ける目を持つが、色彩を見分けることはできない。対して、音声信号だけを頼りに保たれた意識は、瞼を持つ必要がないのだ。この温暖な海のなかに生きる限り、冷寒地にあるはずの氷を知ることもない。
 ならば、きっと。
「あなたには境目がなかったのですね」
 つながりが脳を模し、模した脳に精神が宿る。――キャリアと竜がそうであるように、鯨と機械はひとつの精神であったのだ。
 そんな塩梅だと首肯する水竜の態度に、イェナは深々と息を吐いた。肩を落とし、岩の外へと足を投げ出す。
「――なら、余計に探さないと。きっと待ってますよ」
「そうだろうか」
「ええ、かならず」
 片割れの容量がいかほどかと、詮無いことも考えた。ふたりとも契約ができればそれもいいが、駄目なら駄目で考えればいいだろう。イェナの記憶が正しければ、大学にも何人かのキャリアがいたはずだ。紫の目を隠す必要が消えた今、彼らの協力を仰ぐことも吝かではない。そこまで考えて、イェナはぽんと手を打った。
「次に会ったときはもう、誰の目から見てもあなたたちになるんですよ」
 すくなくとも、イェナはそう数える。パヴェルも、ロズも。これから出会って言葉を交わす人々は、誰もがそう考えるにちがいない。
「そうしたら、本格的に区別がないと困りますから」
 だから、彼女たちには境界が必要だ。イェナはそう確信していた。
 そうだろうかと当惑しながら顎を引く竜の裾を、娘の手がきつくつかんだ。つかめなかったはずの布の感触は、水のように逃げて行くことをしなかった。
「わたし、名付けには自信があります」
 紫の目に映る竜の目のほうは、いつかと同じ。
 紛うことなき驚きの色を帯びて見開かれ、イェナの顔を見つめていた。

 

〈了〉