一:王女と新しい仕事 viii

「長居してもいいことねぇから」
 未だ騒ぎの渦中にある門前広場を抜け、クロイツは手早く通りのひとつに滑り込む。
 彼に従って足を踏み入れたのは、細工師通り――ここだけは坂ではなく、階段で上り下りをする作りになっている。通行する荷車や馬を妨害するためだ。この通りの人間は、工房の前で発生する騒音を許せる性質ではないらしい。
 だからというわけではなかろうが、通りに入った魔術師は口を開こうとしなかった。
 かわりに彼は、じっと左袖の内側を覗いている。僕もそれに倣うように、意味もなく黙り込んだまま、彼が見ているのと同じものを見た。
 つまりは袖の裡へ隠れたもの――左手を。
「血!」
「女子どもじゃねぇんだから黙ってろ、うるせぇな」
 放たれた声の大きさはいつものとおり。吐き捨てるような言葉を残し、彼は階段の左右に備わった手摺に登る。軽快な足音を立てる歩みを追い、僕も慌てて足を動かす。
 猟兵といえば手練れであるが、まさか傷を負わされているとは思ってもみなかった。
 布帛に隠れた赤色を眼裏に抱いて、僕は背後を振り返る。
 門前広場では、騒ぎに巻き込まれた負傷者の手当も行われていたはず。幸いにして重傷者はいなかったようだから、戻っても迷惑にはならないと思うが――
「こんなもん大した怪我じゃねぇよ」
 負傷した当人は、手摺の上で呆れ顔だ。けれども僕が眉間に皺を寄せると、溜息とともに肩をすくめてみせる。
「わかった、わかった。アマリエは正真正銘の女子どもだもんな」
 厚い布地が、血糊の色を透かすことはない。
 それでもなお僕が危惧するところに、彼はしっかりと気づいたようだった。
「というわけで、おまえの別宅に行こう」
 前言撤回。気づいた可能性はあるが、微塵も真剣に捉えていない可能性が高い。
「別宅って……ハイロの――ラリューシャのところか?」
「そうとも言うな」
 うなずいて、クロイツはブラシの柄を肩にかけた。手摺の棒の細さも丸さも苦にすることなく、かんかんと軽快な音を立てて歩いて行く。
「というか、本当にだいじょうぶなのか、その怪我」
「へーきへーき、血ィ出ただけ。掠り傷のうちにも入りませんわ」
 それは刃物による正真正銘の掠り傷ではないのか、と後ろに続く僕は思った。けれども指摘しようものならまたぞろ面倒な話になりそうだから、口には出さない。
 そのうちに魔術師は手摺の上を踏み切り、細い路地のひとつめがけて飛び降りた。
 僕は呆れた気分のまま、同じ路地へと足を踏み入れる。路地を抜けた先は、鍛冶屋通りの隣にある金物商い通り――ここの仕事上がりは、工房の類よりだいぶ早い。
 夕暮れの近づく通りはがらんとして、不思議といつもより広く感じた。けれどもそれを渡るのにかかる時間は、普段よりも相当短い。
 行き交うひとびとを避ける必要がないからだ。
「いいねいいね、俺こういうの好きよ」
 クロイツはえらく上機嫌に、通りの真ん中でくるりと回った。
「そうなのか」
 目的の小道に先んじて入った僕は、なんとはなしに首をかしげる。僕はこういう人気のない通りを物寂しいと思うけれど、クロイツはそうではないのだろうか。
「俺、兄貴どものついでに弟までいてさぁ。実家に帰るとうるさかったから、静かな場所は好き」
 なるほどと応じる僕の視界で白い裾を翻し、魔術師も裏路地へ駆け込んで来た。
 さて。このまま鍛冶屋通りへ抜けてもよいけれど、ラリューシャの工房はこのまま裏路地を通って行くこともできる。ハイロの案内で何度か通ったことのある道だ。
 ただし道幅は相当に狭いから、僕はクロイツの先に立つような形を取る必要があった。そのままふと裏路地の上を見上げれば、真鍮の管が蜘蛛の巣のような複雑な目を見せているのが目に入る。それをより密にしているのは、管の隙間を縫って窓と窓をつなぐ紐と板。
 管のほうは公共のもので、郵便はすべてあれを通って家々へ届けられる。
 対して板と紐は住民が勝手に設えたもので、ちょっとした荷物のやりとりに使うものだ。
 ――頭上の景色からわかるとおり、この街は割と機能的で、手狭にできている。ここでクロイツが好みの場所を探すのは、意外と手間のかかる事柄に違いないと僕は思った。
 そんなことを思案するうち、ラリューシャの工房の裏手が目前に見える。
 僕らはふたり揃って工房の間を抜け、表へ回った。工房の入り口の扉には鍵がかかっていない。クロイツは構わず工房へ入るや否や、迷いない足取りで鍛冶場へ歩を進めた。
「おやっさん、邪魔するわ」
 工房のあるじは、鍛冶場の中で汲み置きの水を眺めていた。クロイツが声をかけると顔を上げ、おう、と声を出す。
「……また喧嘩か」
 続けて発せられた嗄れ声に、僕は天地がひっくり返りそうなほど驚いた。
 なぜなら、ラリューシャ老が喋るのを聞くこと自体、実に数日ぶりの話だったからだ。僕の記憶がたしかなら、前回はアマリエ作の焼き菓子を持参したときであったはず。
「失礼だなぁ。名誉の負傷だよ」
「どうだか」
 吐き捨てて、ラリューシャはふたたび水に目線を移す。それから思い出したように、水瓶のひとつを指差した。対するクロイツは一礼の後、鍛冶場の中へと踏み込んで行く。
 さらには勝手知ったる様子で血糊を洗い始めた彼を、僕は入り口から呆然と眺めていた。
 ――実際のところラリューシャは、僕が鍛冶場へ踏み入ったところで、それを咎めはしないだろう。僕が勝手に気まずいだけだ。気まず過ぎて、もう二度とこの工房に入れなくなることを恐れているだけ。そのために、ラリューシャを勝手に理由にしているだけ。
 そうして僕が高い敷居を設けた鍛冶場の中は、ラリューシャとっては自室のようなものである。仮眠のための寝台も、ものを拭くための晒布も、手当てのための薬も、なんでも揃えてあるのだとハイロに聞いた。
 その言葉が紛うことなき真実であったことを、僕は今ようやく思い知る羽目になる。
 正直なところ、そこに少しくらいは誇張があるだろうと思っていた。けれどもそんな僕の眼前で、クロイツは馴れた様子で傷の処置をすべて済ませ、唐突にこちらへ向き直る。
「なんでそんなところに突っ立ってんだ、おまえ」
「……なんとなく」
 大袈裟に肩をすくめて、今度はラリューシャを見る。
「おやっさん、ハイロはいる?」
「おらん。今しがた買い物に行かせた」
「ん、わかった。じゃあ会わずに帰るわ」
「そうしろ」
 やはり先ほどの声は、僕の聞き間違いなどではなかった。
 聞く者にけっしてよい印象を与えることのない、低く鈍く不機嫌な声。それが真っ当に言葉を紡ぎ、本当に誰かと会話している。妖精の悪戯にでもかかったような気分で、僕はその声を聞いていた。相手がクロイツであるというのが、僕をひどく奇妙な気分にさせた。
 なんだかふわふわした気分で告げた別れに、ラリューシャはいつもどおりの唸りのような母音で返して来る。その事実に安堵しつつ、僕はクロイツと連れ立って工房を後にした。