二:魔術師は語る v

 帰りに階段を降りずに済むのなら、記念に段数くらい数えておくべきだった。そんな馬鹿げた思考をするくらいには、ゴンドラによる移動は早い。しかも足を動かさなくていい。
 クロイツは外套のフードを被ったままの姿で、いっしょにゴンドラに乗り込んだ軍人たちと他愛もない話に興じていた。彼らの姿は宿舎で見たことがあったような気もするし、見たことがなかったような気もする。というのも実のところ、僕はあまりひとの情報を覚えるのが得手ではないのだ。
 むしろ、そもそも他人と話すこと自体が苦手なのである。一度引きこもったあの工房から出られなくなったのがよい証拠。対人関係の記憶も、いつもあやふやになってしまう。昔はこんなふうではなかった気がするが、僕もこの五年でめっきり変わってしまった。
 そう思うのと入れ違いに、ゴンドラが斜面に着地する。籠の中から降りた僕らは軍人たちに頭を下げて、坂道を広場へ向けて登り始めた。
 そうして瓦斯灯の光が見えたころ、先日と同じ、小さな影を見る。
「アマリエ」
 名を呼ぶと、彼女はひどく慌てた様子でこちらへ駆け寄って来た。勢いのまま僕の周りを一周し、正面に戻って来たところで制動をかける。
「昨日のお話、聞きましたよ! 盗人の!」
 誰から、とは聞かない。
 そういえばハイロも、昨日の事件についてはなにも口にしていなかった。そこから察するにどうやら、今日の昼頃からようやく昨日の件の噂が回り始めたらしい。
「荷物と関税が合わなくなったら、大変な騒ぎになるのに! 馬鹿どもですよ! お怪我はありませんでしたか!」
 どうやらアマリエは市街に買い物へ出た帰りのようだ。手提げ籠の中身は相当な重みがあるらしく、彼女が飛んでも跳ねても動きが小さい。
 アマリエ自身の頬もまた、林檎もかくやと言わんばかりに赤かった。もはや籠の重さのことなど、露も感じていないように見える。
「僕についてはだいじょうぶ。荷物を持つよ」
 怪我の有無を聞いて来たということは、僕らが居合わせたことは誰かに聞いたのだろう。
 興奮しきりの彼女の手から籠を預り、斜面のほうで足を止めているクロイツを見る。
 話してよい内容の判断を仰ぎたかったのだが、アマリエがそちらに駆けて行くほうがいくらか早かった。籠という重石から解き放たれ、鉾先を向けるその勢いたるや、穴蔵の兎を追い詰めるための小さな猟犬のよう。
「泥棒からルカのなにを守るんだよ」
「被害のありそうなことから、全部です!」
 すかさずクロイツは両手を挙げた。完全降伏の姿勢だ。
 アマリエはしばらく鋭い目線で彼を睨め付けていたものの、そのうちすごすごと僕のほうへ戻って来る。
「心配するようなことはなかったよ」
 つぶやくような声音で、嘘をひとつ。アマリエはひとつうなずくと、今は亡き屋敷の門のほうへ顔を向けた。それを合図に、僕らは肩を並べて歩き始める。
「なら、よかったのですけれど……」
 あの場には軍人たちもいて、彼らからもエクリールに報告が上がっているはずだ。それでもアマリエが街に出るまで事態を知らなかったなら、きっと誰もが彼女にこの話を伝えるのを避けていたのだろう。かくいう僕自身、無意識に彼女にこの話をするのは避けていた。
 だから、きっと仔細は話すべきではない。
 その意識を持って、僕は視線をわずかに上へと向ける。アマリエから顔を逸らす形だ。なにか問いたがる気配は絶えなかったが、それが言葉になることはなかった。
「アマリエ、今日も大将に会えたか?」
 かわりに門扉を潜ったあたりで、クロイツのほうが声を上げた。
「先ほどお昼を持って行ったときに、少しだけお話もしましたよ」
 とエクリールの小さな侍女は応じる。
「あっ、そうだ。今日はふたりとも来なくていいって――」
 ついで彼女は足を止め、同じ主人に仕える相方を振り返った。僕も反射的に彼女に倣って後ろを振り向き、クロイツが横手を見ていることに気がつく。
 白い布地に阻まれて、視線の先が見えることはない。けれども僕は、彼の見つめる先をすぐに悟った。
「明かりだ」
 役所の方角。正確にはその上方。エクリールの居室から、白い光が漏れている。
 この刻限にあってはけっしておかしな話ではないが、部屋のあるじを思えば不自然極まりない光景だった。エクリールの目は獣のものであり、なにをするにも明かりを要さないはずだから。
「誰だろう」
「お客さまが来るとは聞いていませんが……」
 彼が居室に明かりを灯すのは、僕のような客人を迎えるときに限られる。
「俺も心当たりはないな」
 だからこそと言うべきか、応じるクロイツの声はささやくよう。
 僕らは三人揃ってしばし部屋の明かりを見つめていたが、視界を横切る白色を認めて、それを諦めざるを得なかった。僕はアマリエの背に手を添えて、移動を促す。
「降って来たよ、帰ろう」
 雪が降れば衣服が濡れる。そうなれば風邪を引くのも時間の問題だ。
 宿舎のほうへとアマリエを押しやりながら、僕はまた一度だけ後ろを振り向いた。ついで魔術師の名を呼ぼうとして、やめる。彼は未だまっすぐに、役所の窓を見つめているように思われた。そこに声をかけるだけの理由を、僕は見つけることができなかった。
 ゆえに僕らはなにひとつとして、言葉を交わすことなく夜を迎える。
 そうして深夜、風花の先触れがつれて来た雪雲と風は、トゥーリーズに久方ぶりの豪雪を呼んだ。雪の帳の向こうに灯る防雪の火は、少しだけ星の光に似ているように思われた。