三:大嘘つきたちの夜 i

 朝食を食べる前に、僕はそっと宿舎を後にした。机の上へ、しばらく出かける旨を書いた手紙だけを残して。
 まだ明け切らぬ夜の下、領主邸の土台の片隅に立ったクロイツの姿は、あいかわらず鮮烈かつ清冽な白さだった。箱入り娘の僕から見ても、それが未明の闇に紛れる気など端からない格好であることはすぐわかる。目に見えた事実としても、彼の態度は堂々たるものだ。
 腕を組んで待ち構えていた彼は、僕の姿を見る否や遅いと吼える。水琴鈴に似た玲瓏な声は、獣たちの咆哮とはまた異なる威圧感で以て僕を怯ませた。
 が、僕もいい加減に負けてはいられない。
「夜明け前に決行だって言ったのは君のほうだろ」
 噛み付くように言い返した僕は、黒い外套を着込んで来ている。
「そもそもなんだ、君のその格好は。隠れる気があるのか?」
 対するクロイツはじろじろと僕の姿を眺め回してから、鼻で笑ってみせた。
「俺のように優秀なやつは格好なんぞに囚われんのだ。知らんとは憐れな」
 言いつつ、彼は右の手を外套の懐に差し入れる。引き出した手はそのまま、僕のほうになにかを投げる仕草をした。いつぞやエクリールの香薬を払ったときとは異なり、放られたのは完全な物体だ。魔術で操る疾風などではない。
 反射的に両手を伸ばして受け止めたそれは、僕にとっては見覚えのある――
「おまえはそいつを持っていけ」
 通関の事務所で受け取られたのち、役所へと運ばれ、一括で管理されるべきもの。そして僕が、あの日に猟兵から守ろうとしたもの。つまり、滞在証の割符だ。
 本来であれば自分の滞在する領地を出るとき、役所に申請をして受け取るものである。
 僕はその表面を目で改め、指でなぞって、誰のものであるかを慎重に確認した。
「……どうやって持って来た?」
 記憶にあるものと寸分違わぬ表書きの彫り込みは、ルカ・イェールーシャ。この家名は僕がもし順当に育てば授かっていたはずの、王都を遠く離れた土地にあったとされる伝説の都の名だ。亡き都の名を冠するのは、家名を隠したい貴族が使う常套手段である。
 僕の名前は男児としてはありふれたものであるが、この家名と合わせれば、一部の人間には持ち主の正体を知らせる形になっただろう。この家名を選んだひとのことを思い、僕は強く割符を握る。
 そんな僕に対し、クロイツはするすると目を細めた。
「ちょうどお誂え向きの連中がいたからな、見張りだけ任せてちょちょいのちょいよ」
 誰のことかはあえて問わない。
 問うたところで答えは明白だったし、それを聞いてよい気分がするはずもない。むしろただただ呆れる結果になっただろう。後始末だけはちゃんとしていると信じたい。
 ――手にした木彫りの割符に通された紐は、つやめく絹糸を編んだもの。僕は目を細めながら、毛羽立ちひとつない珊瑚朱の表面を撫ぜた。たしかこれは、ヒトでも獣でもない生き物の手から為る色であったはず。善き隣人とも呼ばれる彼らの作った組紐は、当然のように値が張るかわり、鉄の鋏以外では切断できない。
 割符にこれを通してくれたひとの顔を思い浮かべて、わずかに目を伏せる。
「渡したからな。俺が近くにいなくても、領地を出るまでは絶対ちゃんと持ってろよ」
 感傷に覆い被さる言葉に首肯を返す。それから携帯している割符の相方――身分証となるほうに、受け取ったばかりのものをぴたりと合わせた。
 施された組み木の細工を指でなぞり、ふたつが外れないようにと確実に留める。その上で紐をベルトに通しておけば、紛失することはまずありえない。
「絶対だからな」
「ずいぶん念を押すな」
 明るい赤の紐は、強く引いても解けないし、切れない。だからきっと万が一紛失するとしたら、割符自体が破損したときか、僕の上半身と下半身が泣き別れるときだ。
 クロイツは珊瑚朱の組紐の効能を知ってか知らずか、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「――街を出ちまえば、後は俺がどうにかしてやる。出るところまでは頑張りな」
 言いつつ、彼はフードの縁を指先で引いた。降り落ちる雪にも似たましろのおもてを隠すのは、質感の違う白と金糸の繍。それらで華やかな容姿を慎ましやかに覆い隠せば、後に残るのはどの魔術師にも通じる類の、得体の知れない触れがたさだけだった。
 僕は思わず喉を鳴らしてから、自分も外套のフードを持ち上げる。
 刹那に訪れるのは、狭隘な空間に籠もった感覚。外界と僕を区切るのは、くぐもる音と薄い影。
「それじゃあ、行くか」
 幻に過ぎない境目の向こう、クロイツは踵を返す。
 そうして向かおうとする先は、出入り口とは真逆のほうだ。迷いの片鱗もない動きに、僕は慌てて彼の名前を呼ぶ。振り返る動きは珍しく緩慢で、ひどく億劫そうに見えた。
「なによ」
「……僕もそっちから出たほうがいい?」
「いや?」
 応えは心底不思議そうに。ついで彼はわずかにフードを押し上げ、黒い目を細める。
「そういえば言ってなかったか。俺、身分証も滞在証も持ってねぇんだよ」
「失くしたの? それとも発行してもらってない?」
「後者。故郷で発行してもらうのが面倒だったもんで」
 僕はひとたび口を噤んだ。――ではつまり、彼は。
「不法滞在……」
「そういうこと。よって俺は通関を通らずに外に出る」
 クロイツはちょっとそこまで出かけるような気楽さで、手を振りながら歩き出す。白い背は滞りなく領主邸の跡の土台を越え、建物の裏手へ消えて行った。
 僕は思わず天を仰ぎ、厚い雲の色を見る。月も星も、今日の空の中には見えない。おかげで時間を読むことはできないが、夜が明ける前には外へ出る必要があった。夜が空ける前にここで落ち合って、寝惚けまなこの通関の担当者を出し抜く――というのが僕らの計画のすべてだからだ。
 僕らの、とは言ったけれど、言い出したのは完全にクロイツただひとり。
 そして、実行するのは僕ひとりとなった。
 ずいぶん無理のある計画だとは思ったものの、諦めるという選択肢は存在しなかった。ゆえに僕は自分の顔を一度強く叩く。そうすることで気合を入れ直し、見張りのいない門扉を抜けた。
 ここから先、工業都市であるトゥーリーズの時間の流れは早い。のんびりと歩いていればひと目につくし、場合によっては荷車と行きあって時間を取られる。それだけならばまだいいが、交代を終えて帰路についた通関の警備担当者と行き合っては堪らない。
 かといって走れば足音が響くし、雪に滑ればそれどころではない。
 ゆえに僕は雪解けの早い鍛冶屋通りの坂を、徒歩と疾駆の間の小走りで下ることにした。
 夜明け前の鍛冶屋通りは、意外なくらいに寒さが薄い。おかげで走るのは少しも苦にならないが、かすかなひとの気配が不安を誘う。――だからこそ、ラリューシャの工房の前を通るときには、少しだけ背中を丸めた。
 進む足取りも速度を落とし、足音を立てにくい忍び足で。ハイロにせよラリューシャにせよ、今は会いたい相手ではない。今はどちらに対しても、それぞれに対する罪悪感がある。
 怒られることが怖いなら、あるいは良心の呵責があるならついて来るな、と昨夜のクロイツは言った。それを蹴ったのは僕なのだから、これは仕方ないことだと思うしかない。
 慣れ親しんだ工房の前を抜けたところで、僕は今度こそ本当に駆け出した。被っただけのフードを払い落とした風が、がなるように耳許で騒ぎ立てる。
 思えばこうして走るのはずいぶん久しぶりだ。僕の世界はおおむね王宮の中で完結していたけれど、こうやって市井を走った経験もないわけではない。なぜなら先生がかつて、僕たちきょうだいをよく街へ連れ出してくれたからだ。実情は僕らが勝手について行ったとも言い得るが、それを許容したのはあくまで先生自身である。
 僕がエクリールと知り合う機会を得たのも、それゆえだ。とはいえ市街における先生の放任ぶりはひどいもので、当時の僕は街中を走る機会に過剰なほど恵まれていた。
 君のほうは怪我をしても知らないからね、と告げる声音が、今はただ懐かしい。