三:大嘘つきたちの夜 iii

 事実、川縁にあるトゥーラの通関の事務所は、滞在証の裏書きを理由に僕を拒むことをしなかった。ただひどく奇妙なものを見る顔つきをして、割符の片割れを預かる旨を告げる。
 僕が割符を手渡すと、担当者の男は表書きの名前を台帳へと書き付けた。
「迎えは来ますか?」
 トゥーラは河川と湖によって囲われているから、出入りには渡しの船が必要になる。そういう意味では、ただひとつの門から出入りするトゥーリーズよりも面倒なつくりだ。
 僕は少し迷ってから、緩々と首を横に振る。少なくともクロイツは、迎えが来るとは教えてくれなかった。
「公用の渡しを使うなら、出るのは夕方になりますよ」
 うなずいて、僕は二頭の馬の手綱を引いた。
 馬は渡しの船に載せられないらしいので、預けておくよりほかにない。幸いにして通関は宿も兼ねていて、渡しを待つことはもちろん、厩に馬を預けることもできる。数枚の銀貨と引き換え用の半券を交換してしまえば、後は夕刻を待つしかなかった。
 面倒なことだとは思うが、トゥーラは水によって栄えた街だ。文句が出るはずもない。
 トゥーラをうるおす水は大本を正せば山脈の伏流水で、これを使えばどんな植物もよく育つ。山脈に冠された翠珠の名もそこから来ている。
 そしてトゥーラは、山に育つ種々の薬草を育むことによって暮らしてきた街である。
 したがって薬草を用いる魔術師が根を張ることもあり、流れの薬師や商人も多く、大変に栄えた街である――というのが、いつか先生から聞いた話だ。その前評に反し、宿の酒場で渡しを待つひとの数は少ない。先の売上税の上乗せか、あるいは別のなにかの影響か、彼らの顔はどれも明るくは見えなかった。
 待合所のストーブに入った薪も少なく、部屋の隅などには、底冷えするような寒さがわだかまっている。中でも川に面した窓がある壁のそばでは、外套の無力をとみに感じた。
 しかしながら僕がそこにある席に陣取ったのは、ひとびとの陰鬱な顔を眺めていると、間違いなく中てられることがわかっていたせいだ。
 もっとも、中てられたからと言って別段なんの害があるわけでもない。僕自身が嫌だったのだ。だからこそ僕は誰にも話しかけられないよう徹底し、視線も窓の外へと据えていた。
 念のために頼んだ花茶はひと口も啜らなかったし、おそらく周りからも話しかけにくい人間だと認識されていたのではないかと思う。けれども世の中には、常に例外があるものだ。
「君、隣から来た魔術師の連れで間違いはないかい?」
 かけられた声に、無視を決め込むことは簡単だった。だというのに僕がそちらへ目を向けてしまったのは、隣という単語に微妙なニュアンスの差を感じたからこそ。
 ――机に手を置いて立った中年の男からは、一見してひどく丸いという印象を受けた。恰幅のよい体躯に相応しく低い声音に、僕はどう答えるべきかと迷う。
 少なくとも、彼は僕の知り合いなどではない。
「君のことはクロイツのやつから聞いたよ。あの雪が降る前の晩にね」
 男は厚い瞼に埋まりそうな目の、片方だけを瞑ってみせた。その悪戯めかした仕草に、僕はゆっくりと唇を開く。
「……ひょっとしてあなた、商会の?」
 首を締めるような塩梅の襟首には、青い石のピンが留められている。噂によれば、これはイラテア商会の人間が持つ一種の目印であったはず。
「そう、そうとも! こう見えても健脚には自信があってね」
 身を翻す男の動作は、見た目にそぐわぬ軽やかさだった。驚きは内心では済まず、彼の後ろをついて行く僕はひどく滑稽な顔をしていたと思う。
 こちらが平素の顔を取り繕い終える前に、男は宿を出た。そのまま河岸へ停泊した船のひとつに向けて、足を緩めることなく歩いて行く。歩幅の違いもあっただろうが、それに追い縋るのはずいぶんと骨が折れた。
「馬、ちゃんと預けて来たか?」
 男が足を止めたのと同時、船の中からかけられた声は聞き慣れたものである。
「……預けましたとも」
 僕は膝に手を置いて呼吸を整え、そう返してから甲板へと足を踏み入れた。
 雪から荷物を守るためと思しき屋根の下には、一切ものが入っていない。積荷のかわりにそこに陣取った魔術師は、腕を組んで僕を見上げた。
「まぁ、座れ」
 言いはするが、場所を空けてくれようという気配は見えない。予想はしていたので、僕は特になにを言うこともせず、甲板の隅へ座り込む。それを見届けた案内の男は船の舫いを解き、豹のごとき身軽さで船に飛び乗って来た。
 大型の商会が所有する船とあって、ともなう揺れはけっして大きくはない。けれどもどういう仕組みか、男が櫂を掴んで漕ぎ出せば、船は容易く速度を出して河を進み出す。
「君、たしかに僕とあの丘のあたりで別れたよな」
「おう。とはいえ、仔細については口外できない秘密だ。聞くな」
 クロイツは面白くもなさそうに、河下の湖のほうを眺めていた。反対に、僕は彼と街道のほうを見比べるのに忙しかった。
 おかげで景色を楽しむ余裕を取り戻すより前に、市街の側に降ろされる羽目になる。
「また秘密を増やしたのか」
 舫いを結びながら、男はそう言って豪快に笑った。
「女は秘密が多いほうがいいって言うだろ。俺、花街の姉ちゃんのことは尊敬してるから」
 クロイツもまた似たような具合で大笑する。
 かたや山の上、かたや壁の上でやりとりするだけあって、このふたりはどうやら元からの知り合いのようだ。むしろどちらかといえば、親しい部類の知人だろうと思う。その証拠に彼らの語り草は揃いも揃って、僕の知らない事件や人物の話ばかりだった。
 聞いてもよくわからないから、僕はなんとはなしに煉瓦造りの街並みを眺める。
 川底に堆積した鉄を含む粘土と頁岩から作られるこの街の煉瓦は、茶と呼ぶには赤みが強く、赤と呼ぶには砂の色に似ていた。おかげで街の中はひどく独特な色彩に見える。
 本来ならば、ひとでごった返していてもおかしくない街並みはしんと静かで、異国より遠いどこかへ迷い込んでしまった気分がした。くすんだ色彩の裏路地を注意深く覗き込んでいる間に、男ふたりはすっかり前に進んでいる。
 空いた距離を埋めるべく走り出すと同時、はるか前方で両者が止まった。
 クロイツは呆れ切った様子でこちらを一瞥し、男は不思議そうに頭を傾ける。首と呼べる部位の見えないこの男は、クロイツとの会話を聞くに、ヴィガという名前のようだった。
「どうしたね」
 と心配そうに問う彼の声に、僕は首を横に振る。
 ヴィガはそれ以上追求することなく、一種の死を迎えたような街並みを進んでいく。そうして彼が案内してくれた先は、目抜き通りから外れた道に面する屋敷だった。
 押し開かれた扉の向こうにあるのは、紛うことなき赤の色。絨毯と、それから建材として使われた紫檀の色だ。鮮やかに見えたその色は、実際のところ目に痛くもなかった。よくよく見れば上品にさえ見えるのは、おそらく持ち主のこだわりだろう。
 踏み入れば、毛足の長い絨毯が雪より貪欲に足音を飲み込む。
「やあやあ。よく来たねえ」
 吹き抜けになった玄関ホールの二階からは、いくぶんのんびりとした声が降って来た。それに釣られて見上げた先に、若い女が立っている。
 処女雪よりもと形容し得る、ましろの髪の目立つひとだった。
「もう少し早く来るかと思っていたんだけど、遅かったじゃないか」
「やっぱりおまえか!」
 怒声とともに僕の横を駆け抜けたクロイツが、二階へ続く螺旋階段の手摺を蹴る。
「降りて来い!」
「あはは、やだなあ、降りたところで私のほうが大きいのは変わらないのに」
「話があるって言ってんだよ、この鳥頭」
 からからと明朗に笑っていた女は、憑きものが落ちるように笑みを消した。
 そうして、そのままおとなしく階段を下って来る。絨毯のせいで足音はないが、奇妙に足を引き摺る歩き方だった。見れば彼女は外見の若さに反し、杖をついている。
 ただし階段を降りて来たその姿は、本人の言どおりクロイツよりも大きかった。だからというわけでもなかろうが、見合った両者の間には、言い争うよりも明確な敵意がある。
 僕は助けを求めるように、背後に控えるヴィガを見た。彼は僕と目が合うと、清々しいほどの勢いで目を逸らす。
「そちらの愛らしい方ははじめましてだね。私のことはクロイツから聞いておいでかな?」
 不意にこちらを見た女は、すいと切れ長の双眸を細める。
 笑った、と表現するには眼光が鋭い。しかしながら笑っていないわけでもない。強いて表現するなら、見られた側の心に、絹糸ほどの細い引っ掻き傷を残す微笑だった。
 女は僕の答えを待つこともなく、たおやかな所作で薄い胸に掌を当てる。
「私の名は〈月を抱く朝の訪れ、航る風の――」
「イラテアだ。ルカ、こいつが名乗るのはまともに聞かなくていいぞ」
 にわかに女は眉尻を下げ、わざとらしく傷ついた顔をした。
 そうしてわかるのは、鋭いと感じた眼光は単なる錯覚であったということだ。彼女の瞳はよく光る冷ややかな金であり、それが怜悧にも冷徹にも見える理由のすべてだった。
 幸いとでも言うべきか、僕はこの瞳の色に覚えがある。
「あなた、ヒトではないんですね」
 純白に見えた髪は、先端ばかりが焼け焦げたように黒い。服の黒に溶け込むようなそれを摘み上げて、商会の女あるじはふにゃりと破顔した。
「君は私の同族を知っておいでかい」
 はい、と頭を縦に振る。
「前王の守護の獣――ユードヴィール様です。白梟の」
 それは僕らの父の友であり、僕らにとっての伯父のようなひとでもあった。同族の女性であれば毛先は黒いと教えてくれたのも、彼だ。彼らが生まれ持った本性である白梟は、雌のほうが黒の勝った模様をしているらしい。
 そしておそらく、彼女が名乗ろうとしたのはすべての獣が持つという〈真名〉である。あれはとても長いから、気の短いクロイツが止めたがる気持ちはわかる。
「なるほどねえ。じゃあ、歓迎するにあたって別段気遣いは要らないわけだ」
 イラテアはそう言ってから、案内を務めた男を見た。ヴィガは丸い身体をより丸めるようにして、深く深く頭を下げて見せる。
 その姿に満足げにうなずき、イラテアは杖の先で廊下を示した。
「君だってこんなところで立ち話もなんだろ、クロイツ」
 魔術師はなにひとつ答えることをしない。ただ、なぜかしっかりと足音を立てながら、イラテアが示したほうへ歩いて行く。
 扉を開く音は高らかで、彼の気分は容易に察することができた。
 ――怒っている。彼の怒りを見るのははじめてだが、そう確信が持てた。
 対するイラテアは、例の引き摺るような足取りで以て、彼の後を追う。僕はさらにその後ろ。最後尾をついて来たヴィガは、部屋に入ることのないまま扉を閉ざす。
「話とやらは改めて君の口から聞いてあげたほうがいいかい?」
 言いつつ、イラテアは紫檀のテーブルと揃いのソファの下座へ腰を下ろした。
 向かいの上座のソファには、すでにクロイツが座り込んでいる。イラテアが顎でその隣を示すものだから、僕はおっかなびっくり彼女に従うことにした。もっとも僕が隣に座ったからといって、クロイツは眉間の皺を深めたりはしなかった。
「いつからまどろっこしい真似するようになったんだ、商売人」
 なぜだか少女のように笑いながら、イラテアは足を組む。そうして上にされた左脚の膝から下が、不自然な角度でだらりと落ちた。――義足だ。
「それもそうか。この男にはわかっているように、エクリールの客は私だよ、可愛いひと」
 天鵝絨の座面の上で、僕は顎を掻いた。痒いわけではなく、困惑を示す印として。
「壁内への出入りの記録はなかったと聞いています」
 それからいくぶん頼りない気分で、膝上に置いた手を握る。
 ヴィガが紅茶の乗った盆を運んで来たのは、ちょうどそれと入れ違いのことだった。添えられた砂時計の砂が落ち切る前に、彼は頭を下げて部屋を辞す。
 ついでに出て行きたいと思ったのは、隣に座る魔術師があいかわらず不機嫌な顔をしているせいだ。およそヒトとは思えぬかんばせは、怒りを見せればただただ恐ろしい。
 そのくせわざわざ僕のぶんまで紅茶を淹れてくれるあたりが、余計に怖い。
「君、ユードヴィールを見たなら知っているだろう。私たちにはねえ、翼があるんだよ」
 空のカップに手ずから紅茶を注いで、イラテアは右の手の甲を僕に向けた。
「雪に負けず、風に負けず、馬より疾い自慢の翼さ」
 ユードヴィールを同族と呼ぶなら、彼女もまたその本性は白梟だ。その両翼を使われてしまえば、いかにトゥーリーズが誇る〈銀の壁〉とはいえ、存在しないのと同じだろう。
 ほかの竜の子らと同じく整った容姿に笑みを刷き、イラテアは黒い毛先を指に絡める。緩く波打った髪は、鳥の羽毛とは似ても似つかないように見えた。
「や、しかしなんだね、クロイツ。君ってばこの子にこんな話を聞かせるために、こんなに時間を費やしたわけかい? 君、ひとりならもっと早く来れただろう」
 クロイツは鼻で笑うと、ソファの背に体を預ける。ふんぞり返ったと言ってもいい。
「残念ながら、こいつは俺の目付役でね。今はこいつのご機嫌をうかがわないと、遠出にも苦労する有様ってわけ」
 僕にしてみれば言いたいことの山とある台詞だが、あながち間違いでもない。もしも僕が本気で止めにかかっていれば、彼はここへ来ることができなかった可能性もある。
「ははあ、なるほど。たしかに坊がそんなことを言っていたなあ」
「坊?」
 眼の前の女とエクリールは、さほど年が変わらないように思える。疑るような僕の目線に気づいてか、隣の魔術師は鼻で笑った。
「こいつ、普通に婆だぞ。俺がガキの時分から見た目が変わってねぇ」
 そう言われてピンと来るものがあった。――竜はかつてこの地に在り、今では形而上の最果てにて暮らしているが、稀にこの地へ降りて来る。
 つまり彼、あるいは彼女は、それだけの永い刻を生きている。その系譜たる獣たちがヒトと同じ齢を重ねる道理など、どこにもありはしないのだ。
 それでもなお獣たちはヒトに合わせて似たような時を歩むことを選んだが、ヒトと隔絶すればそれだけ永くを生きると聞く。それを思えば、答えはおのずと見えて来る。
「ヒト喰いの獣……」
 隔絶に至るための手段のひとつが、ヒトを喰うことである。僕らが絶対の禁忌とすることに手を出すことで、彼らは親と同格の畏怖の対象となる。
 一種の畏敬を以てつぶやいた声には、きゃらきゃらと娘のような笑声が返された。
「君は言うことが過激だなあ。ほかの手段だってあるんだよ」
 謝罪を告げるべきかと迷う僕の横で、冷ややかな言葉がひとつ。
「おまえはそんな上等な獣じゃねぇだろう」
「はてはて、厳しい物言いをなさる」
 イラテアは肩をすくめて、すっかり湯気を立てなくなった紅茶を啜った。
「まあ、否定はしないよ。ほかの長生きの連中みたいに世俗から離れるくらいなら、死んだほうがましだもの」
 それからカップをテーブルへ戻し、次は白磁の小皿を手に取る。
 添えられた銀の匙で掬い出した中身は、ただの赤よりもよほど目につく赤黒い色。まるで血のような色彩を目の当たりにしてしまうと、こちらも口を噤むよりほかにない。
 もしもうっかり妙なことを口走ろうものなら、次にあの器に入るのは自分かもしれないと思えて仕方がなかった。
「単刀直入に言うが」
 にも拘わらず、隣に座るひとの声には怯懦もなく、躊躇もない。
 聞いているこちらの背筋がひやりとする声音と語調で、言葉の礫を投げかける。
「おまえがわざわざ大将のところに来た理由を教えろ」
 イラテアは匙の中身を舐めてから、じっとクロイツのほうを見つめた。
「趣味かなあ。娯楽、と言ってもいい」
 隣でわずかに身じろぎの気配。背もたれから上体を離し、クロイツはテーブルの上へ手を伸ばす。彼が手に取ったのもまた白磁の小皿だ。銀の匙が掻き混ぜたその中身はけざやかなまでに紅く、かすかに酒精の匂いがした。
「当ててやろうか」
「――聞くだけは聞こうか」
「おまえ、俺たちがここに来るかどうかで賭けてやがるだろ」
 ヒト喰いの獣は銜えた匙を上下に揺する。
「それは正解であるとも言えるし、不正解とも言える」
 言葉は聞き慣れた類のくぐもり方をしていた。エクリールが銜え煙管で話すとき、ちょうどこういう声を出すことがある。もっとも、それが親しみを喚起するようなことはないが。
 クロイツは自分も匙で掬ったものを舐めてから、音を立ててテーブルへ器を戻した。
「私たちが賭けているのはむしろ、君たちがここでなにをするかについてだよ。来訪なんてものはねえ、過程でしかないのさあ」
 ああそうと短く応じた魔術師が次に手にしたのは、みっつめの白磁の器――たぶんそれは僕のものだと思うのだが、止める気力は湧いて来なかった。
「まあ、なんだ。せっかく来たんだ、一晩くらい泊まっておいきよ。帰るのは明日で構わないんだろう?」
 眉間の皺を緩めないまま器の中身を混ぜる魔術師に対し、イラテアはまたきゃらきゃらと笑う。答えに窮して見やったフード越しの頭が、小さく上下に揺れた。
 礫は礫でも、氷の礫――イラテアがこちらへ投げつけて来るものは冷ややかで、害意よりも悪辣な、有無を言わせぬ強さがある。けれどもクロイツはそれに屈したというより、単に面倒だからうなずいたという気配があった。
 それでもイラテアは満足そうな笑みを浮かべて、自分の手にした器を置く。
 クロイツも最後の器を卓上へ戻してから、音も立てずに立ち上がった。弛んでいた布地の落ちる動きは霧が降るよりも密やかで、あらゆる音を伴わない。
「部屋は」
 黒い瞳は、睥睨と呼び得る鋭さで商会のあるじを見下ろす。
「三階。ヴィガが外に控えている」
 言葉に応じて首を巡らせるのを見届けて、僕は慌てて紅茶の器に手を伸ばした。わざわざ用意してもらった手前、残していくのは気が引ける。
 飲み物を取るために口を開くと、顎の付け根がつきりと痛んだ。意図せず奥歯を噛み締めていたらしい。
 その痛みを堪えて口にした紅茶は渋みが強く、飲み込むことにも難儀する。ジャムと合わせて飲むことを想定していたのだろうが、僕のぶんはクロイツの腹の中だ。
 覚悟を決めてカップの中身をすべて飲み下すと、歯の裏にはざらつきが残った。
「アー……」
 かけられた、というには違和感の残る声が発せられたのは、僕が腰を浮かせたその折に。
「君、少し残らないか。私は君と話をしたいんだけど」
 僕は目を瞬かせてから、返答より先に部屋の出入り口を見る。魔術師の姿はすでに扉の近くにあった。
「彼から目を離すのが心配なら、ヴィガを付けておくけれど」
「いえ。――ただ、彼がいっしょではいけませんか」
 イラテアは、ヒト喰いだ。それゆえに、彼女とふたりきりで話すことには抵抗があった。
 ――獣たちはこの国において、ヒト喰いを権利として法で認められている。だからこそ彼女たちがそれに反することはない、と知っているはずなのに。
 頼りのクロイツは背中しか見えない。
 その白い背中に、僕は先生のことを想った。僕がイラテア商会のなんたるかを知っているのは、先生が教えてくれたからだ。
 ひそめた眉を隠そうともせず、滲ませた苛立ちを薄める努力もなく、あれは正真正銘のろくでなしどもの集団だと先生は言っていた。
「私は構わないけれど」
 かの商会はどこへでもやって来る。王家の許へも、戦の前線へも、金の匂いに釣られてどこへでも。だから万一彼らと話すのならば、努々注意せよと教えられた覚えがある。
「君が困ると思うんだよねえ」
 彼らの言葉はいつ何時であっても、悪辣の権化であるからと。
 その言葉を、今更のように身に沁みて思い出す。魔術師の名を呼ぶべきかどうかを迷ったこと自体が、先生の言葉が正しかったことを証明していた。
 口の中が不自然なほど乾いて、うまく言葉が吐き出せない。しかし――
「そいつは無計画にヒトを食ったりしねぇよ」
 遠くから告げられた言葉は、ただそのひと言で詩のようだった。律を取った音階もなければ韻を踏むでもなく、ひとの心に容易く入り込むという意味においてだけ。
 僕はイラテアを見た。彼女は紅を差していない唇を動かさずに、然りと告げる。
 たとえヒト喰いの獣であろうが、彼らの祖たる竜が定めた法は絶対だ。だから彼女は僕を食べることはできない。そう考えると、肩に乗せた鉛の袋がすとんと落ちたようだった。
 僕はいくぶん安堵した気分で、天鵝絨張りのソファへと腰を下ろす。眼の前の女はすらりと細い足を組み替えて、ここまでで一等嬉しそうに笑って見せた。