三:大嘘つきたちの夜 vi

 喧嘩はできない、と魔術師は言った。
 けれども、なにもできないわけではない、とも彼は言った。
 白い布の向こうで辰砂の光が翳り、みずからの瞳と同じ色の闇が落ち切ったころ、魔術師は堂々たる態度で帳を開いた。
「起きてるな。行くぞ」
 たしかに眠っていたわけではないけれど、これには文字どおり飛び上がるほど驚いた。慌てて体を起こす僕を鼻で笑い、クロイツは間仕切りの向こうへ去って行く。去り行くその背を慌てて追い駆ければ、彼はちょうど窓を開くところだった。
 降りられるか、と彼は聞かない。煉瓦の目地も見えない眼下の闇へ、慣れた手付きで敷布製の綱を放る。
 僕はこれでも王女であるので、こういう闇の中へ降りた経験があった。さらには一度降りた先なのだから、降下に臆する理由はない。
 そんな僕が降り切るより先に、クロイツもまた窓枠に足を乗せる。彼は先刻と同じく、命綱なしの自由落下で僕を追い越して行った。
「どうせもう戻らねぇから」
 路地に降りた僕を迎えて、彼はそんなことを宣う。
 頭上に見上げた三階の窓は風に揺られて、所在なげに揺れていた。
 クロイツは特に構う気配もなく、足音を殺して路地を抜ける。忍び足で付き従った先は屋敷の正面、ヴィガに招かれて入った玄関口だった。ましろの指がノブを回すと、扉はさしたる抵抗も見せずに口を開く。クロイツは呆れたように片眉を上げてから、足取りは変えずに屋内へ入った。
 屋敷の中は妙に静かだ。吸音性のよい絨毯のおかげかもしれないし、ひとが中にいないせいかもしれない。どちらであるかを判じるより先に、クロイツは僕を応接間へ導く。
「あいつの商いは趣味だからな」
 部屋の奥には棚があった。屋敷のすべてと完璧な調和を見せる、瑠璃溝隠の花の螺鈿細工がその戸を彩る。
 蒼い蝶に似た花弁の細工を指でなぞって、魔術師はゆっくりと真鍮の把手を引いた。優美な外見とは裏腹に、開いた戸はひどく分厚い。
「管理が杜撰で助かる」
 棚の中を覗き込めば、嗅ぎ慣れない匂いが鼻を掠める。こればかりはほかに表現のしようもない、強烈な火薬の匂いだった。
「おまえ、銃の装填はできるか?」
「嗜み程度でよければ」
 夜闇に浮かぶ月が落とす青い光は、室内を青紫に近い色に染めている。
 その色彩の中で顔を見合わせ、僕らは笑った。
「相手が三人以上じゃ、喧嘩なんかしてらんねぇからな。まとめて鴨撃ちにしてやる」
 棚に入っていた銃は四挺。それらを半分ずつ抱え上げて、弾は箱ごと拝借する。
 ――これを使って陽動をするのがクロイツの役目だ。そして僕は詰所へ入り、ストーが言う先生を捜して、助ける。黄昏の光が消える前に、僕らはそのように段取りをしていた。
 男にしては小柄なクロイツと、女にしては大柄な僕と、荷物を抱えれば歩む速度はそう変わらない。
 煉瓦敷きの通りを駆け抜けて、街の中のひときわ明るい一角を目指す。
 魔術師の処刑という大事を前に、遠いいずこかに座す獣の目を避けるため、家々はすべて明かりを落としていた。そんな中で僕らが目指す先は、けっして燈火を絶やすことができない場所――有事の際は避難先として用いられる、トゥーラの役所だ。
 トゥーラは兄弟都市と同じく、役所と軍の詰所がひとつの敷地を共有している。その所在地が街の中で一等高いのも、同じ。暗闇に沈んだ街の中、見失うことなどありえなかった。
 詰所へと続く斜面が見えて来れば、背後に控えた防雪林の姿も見えて来る。クロイツは顎を使って、そちらに向かう旨を示した。
 応じて整えられた道を逸れ、獣道さえない斜面へ分け入る。
 あるかなしかの風に吹かれた木々が、唸りにも似た声でざわめいていた。
「弾をけちるなよ。どうせ元手がかかってねぇんだから、どんどん入れろ」
 ざわめきの向こうから届く声は、新しい玩具を手に入れた子どものような喜色を宿す。
「君のそういうところ、心底尊敬する」
 言い返す声に笑いながら、魔術師は完全に役所の敷地の裏を取った。茂る枝葉の合間から届く明かりは、僕らの手許を十分に照らしてくれる。
 拝借してきた槊杖を使って弾を込めるのも、おかげでさほど難しくはなかった。なにせ僕にとっては、乗馬と同じく慣れた作業であったもので。
「当てられそうか?」
 四挺すべての銃に紙製薬莢の中身を詰め終えてから、僕はクロイツの見やる先――篝火が焚かれた詰所の囲いへ目を向ける。
「誰に向かって言ってやがる。弾が届く距離なら盲撃ちでも当てる自信があるぜ、俺は」
 花祭りに臨む娘の笑みで、魔術師は応じた。――春のはじめ、娘たちはこれ幸いと想い人の手を取って、祭りの踊りの輪へと加わる。けれどもクロイツがこれから手に取るのは、僕が弾を込めた銃だ。
 それによって踊りの輪へと導かれるのは、囲いの上と中に控える軍人たち。
「弾切れは」
「心配しなくていい。銃も元手はかかってねぇからな」
 地面に並べられた四挺の銃のうち、手近なひとつを白い手が掴む。およそ争いごとに向いているとは思えない手だが、僕は彼がこの手で成し遂げたことを知っている。
 だから今回も、なにをするつもりかと仔細を尋ねる気はしない。本来とは違う用途に用いられ、遠からず破壊される定めの火器に、心の中でひそかな弔いを唱えるだけだ。
「そういやさ」
 構えた銃の照門を覗きながら、魔術師がふと小さな声を発する。
 そのとき僕はちょうど木の陰に座り込み、箱の中の弾を数えているところだった。顔を上げても視線が交わることはない。
「俺、おまえに俺の座右の銘って教えてあったっけ」
「……聞いてないと思うけど」
 照門を覗くために傾けた顔を正すことなく、ああそう、と彼は言った。
「一に先手必勝、二に手加減無用、三に死なば諸共のつもり」
「つまり死んではやらないぞってことだな」
「あと、殺すのもなし。なぜなら俺は比較的優しいからね」
 僕はうなずいた。
 クロイツは鋭く息を吸い、銃口を上げる。白く美しいその指が銃爪を引き、高らかな銃声が耳を打った。着弾位置はわからない。
 僕は努めて銃弾の行く末から意識を外し、弾の入った銃を拾ってクロイツへ手渡した。
 詰所にも役所にも、目立つ動きの気配はない。しかしながらクロイツは気にするふうも見せずに、新たな一挺を構える。火薬が爆ぜる音色がしつこいくらいに鼓膜を揺らした。その中でようやく、誰かがなにかを大声で叫ぶのが聞こえた気がした。
 三挺目の銃をクロイツへ渡し、はじめの一挺に弾を込める。
 続く銃声は少し間が空いた。いよいよひとを撃った音であるかもしれない。なにせ向こうに灯りがある以上、防雪林からの銃撃は狙いを定めるのが容易だ。
 対する詰所の側は自分たちが抱えた火のために、むしろ周囲の闇を濃くしている。
 付け加えるならば、僕らが使っているのは火縄への着火と、それに伴う発煙を必要としない燧石式の歩兵銃。あちらからこれを見つけるには、それなりに時間がかかるはず。
 僕はそんなことを考えつつ、四発目の銃声と入れ違いに、弾の入った最初の一挺を差し出す。ひと巡り後の銃声は、ふたたびわずかな間を空けて響いた。
 枝葉を揺らす風に乗って、悲鳴じみた声の残滓が銃声より明瞭に響く。六度目の銃声は僕らが銃を入れ替えるより先に鳴った。
 クロイツは舌を打って、僕の手の中に収まっていた銃を奪い取る。銃爪を引くより先に七度目の銃声。続いた鈍い音が木への着弾音であるとわかったのは、単に僕がそれを聞いた経験を持つせいだ。――正直に告白すると、僕は獲物のかわりに樹を撃つ機会には嫌というほど恵まれていたもので。
 僕は身体をなるべく縮こませながら、太い木を背にして弾を込めることに集中する。銃声を数える余裕はとうに消えた。自分が撃たれるまでは絶対声を上げるな、とクロイツからは言われている。そんな彼は緊張した様子もなく、淡々と銃を撃っている有様だった。
 軍で正式採用されている型の歩兵銃は、予算との兼ね合いで不発も多く、まともに撃てる数も決まっているが、呆れた胆力であると思う。しかしながらここに来て、不意にクロイツの肩を掠めて細い枝が落ちた。来た、と僕が思うより先に、彼は素早く膝を折る。
 もちろん、それは被弾による動作などではない。
 座ることで身体を支え、少しでも命中率を高めるための構えだ。つまり、ここからは本気で撃ち合いをするという意思表示。そして、僕への合図。
 事前の取り決めに則って、僕は弾を込めたばかりの銃を置き、一目散に駆け出した。仮に僕がここに居残ったところで、できることなどない。クロイツにも、ストーにも、ストーが先生と呼ぶ魔術師にも、だ。
 防雪林の斜面を駆け下りながら、途中で曲がって正面へ回る。
 幸いというべきか、トゥーラは有事の際の避難所を二箇所に分けている街だった。その片方は治世の要となる領主邸であり、役所および詰所とは別の敷地に存在する。
 よって、トゥーリーズと比べて詰所に居残る人材は少ない。だからこそ陽動の支援さえあれば、僕でも侵入は容易だろうとクロイツは言っていた。
「とにかく走る」
 彼に教わった侵入の方法は単純かつ明快、本来ならば反芻するまでもない。
 全力で走る人間の前に飛び出すのは、大変な勇気の要ることだ。ゆえに足を緩めずに走り抜ければ、見張りがいたところで、敷地に飛び込むこと自体は容易にできるはず。
 見上げた先、開いた門扉の脇は見張りがふたり控えていた。
 そして彼らは僕を認めると、驚いたように目を丸める。それを視認した刹那に、僕はきつく奥歯を噛んだ。
 とにかく思い切りが肝要だ、とクロイツからは言われている。
 中に潜り込みさえすれば、見張りは持っていても銃を使えない。誤射をしたらどうなるかは目に見えている。だから少しなら隙ができる。その間に逃げればいい。蕩々と語られた言葉を脳裏で反駁しつつ、一層強く地面を蹴る。
 ――獣であれば自身の膂力ゆえに、ヒトであれば保身の意識ゆえに、全力で疾走する人間の前に飛び出したりはしない。絶対に。だから僕は足を緩めない。そのために荷物はすべて捨てて来た。
 心臓はすでに早鐘を打っている。呼吸も荒い。
 困惑したような、あるいは驚愕したような顔を見た気がしたけれど、なにも見なかったふりをして頭の位置を下げる。体当たりの要領で肩から突っ込んだ身体は、受け止めるものの一切を持たず、当然のように踏鞴を踏んだ。
 ああ、でも。
 これはつまるところ、僕が斜面を登り切ったことにほかならない。これで当面の目的は果たされた。勢いのまま蹈鞴を踏む羽目になったのは、足許の角度が変わったせいだ。
 肩越しに振り返った先にはふたつ、青色の制服をまとった姿がある。その片方は迷いなく銃口を上げ、空に向かって銃爪を引いた。ついで彼の唇が小さく動いたことを、僕の目は見逃さなかった。紡がれたはずの言葉はひどく短い。――いけ。
 その言葉は僕の心の底を強く引っ掻く。
 すでに傷跡と瘡蓋に覆われて、自分ではけっして見ようとはしない箇所を。
「こっちに」
 庭木の陰から投げかけられた声に応じて、僕は土を蹴る。
 外套の色を暗いものに変えた少年は、僕の姿を信じられないものを見る目で見ていた。
「来れたのか。どうやって……」
「クロイツ……僕の連れが裏で陽動をしてる」
「それについてはなんとなく予想がつくが」
 ストーが聞きたいのはむしろ、僕がいかにクロイツを説得したかであったのだろう。彼はあの水車小屋の中で、クロイツが先生の救出に対して拒否を示したのを聞いている。
「話すと長くなるんだけど」
 僕は、奇しくもあの日のクロイツと同じようなことを口にした。
「ならいい」
 言って、少年は僕を手招く。その仕草に合わせてゆっくりと庭木のそばを離れ、詰所のほうへ向かって歩き出す。走ることはしなかった。
「あいつの陽動に本気で引っかかって壁を越えたやつもいるし、引っかかったふりをして外に出たやつもいる」
 早口に語るストーの後ろを歩く僕に対し、すれ違った者は声をかけない。不思議に思って振り返ると、きょろきょろするなと小さな叱責が飛んだ。うなずいて、視線を前へ据える。
 少し俯いたのは回りの目を気にしてのことだったが、これにはなにも言われなかった。
「……僕はなんだと思われてるんだろう」
 すれ違った相手が充分離れたのを見計らい、ひそめた声で問うてみる。
「おれの連れ。おれたちはいつも同じ服を着ているわけではないから」
 猟兵たちは市街での暗殺を主たる任務とする。それを思えばたしかに、僕の普段着は馴染みのよい服装に見えるのかもしれない。同時に前を行くストーの存在もまた、同僚たちの勘違いの一助になっているのだろう。
 彼は堂々たる態度で詰所の中へと入って行った。もっと走るかと予想していた僕にとっては、呆気ない目的地への到着だった。
「そういえば、あの男は本当に魔術師なのか? ずいぶん正確にものを撃てるようだが」
 詰所の廊下の壁には、番号式の鍵で閉じられた箱が釘打ちされている。ストーは慣れた手付きで番号を揃え、開いた箱の中から黒鉄の鍵を引っ張り出した。
「 『本当に』?」
 鍵を懐にしまい込むストーと肩を並べ、僕は眉根を寄せた。
 ――彼とはじめて出会ったとき、自分が魔術師に見えるのか、とクロイツは笑った。たかだか数日前のことであるのに、もうだいぶ前のことのように思える。
「君たち、もしかして……」
「それについては否定も肯定もしない」
 この年頃の少年にしては、ずいぶんときつい声だった。少なくとも僕は、こういう声を発したことがない。
 そのうちにストーは足を止め、廊下の一角にあった扉を開いた。
 先に続く空間はひどく暗く、狭い。狭いということがわかるのは、単に壁のひとつに隙間があって、光が漏れているから――ではなく。
「申し訳ないが、」
 あるのは、扉だ。ならばここは、拘置される者の身辺を改めるための場所のはず。
「ここから先は、目を閉じてついて来てくれ」
 少年の筋張った手が開いた扉の先には、長く階段が続いている。
 風に乗って、脂の燃える匂いが鼻をついた。光源として燃やされる獣脂の特有の匂いだ。
 冷えると凝る乳酪を金属の器に流して作るバターランプは、安価な割に長く燃える。それが吐き出す煤のせいで、扉の向こうは光量の割にずいぶん暗く見えた。
「どこまで?」
「おれがいいと言うまで」
 僕は首を縦に振ると、肺腑の奥まで息を吸い込んだ。
 砂を撫でるような感触の壁に掌を押し当て、ゆっくりと階段を降り始める。はじめの数段は流石に不安もあったが、そこを過ぎれば後はさしたる困難もなかった。耳を澄ませればストーの立てる足音ばかりが小さく聞こえる。
 ――それだけを導に、いくつ階を降りたころか。
 あるとき唐突に、ランプの芯が溶けた脂に落ちる音がした。火と獣脂が直接触れ合うことで立てられた断末魔は、薄い器に共鳴して長く尾を引く。
 その向こうに足音はない。目を開くかと迷いはしたものの、逡巡はすぐに霧散した。瞼の闇の向こうから、ひとを殴打する音がしたからだ。
 ついでストーのものではない声が、怒声とも悲鳴ともつかない声を上げる。
「いいぞ、鍵を取れ!」
 それを割いて飛ぶストーの声は、今まで聞いた彼のどの言葉よりも年齢に相応しいものに聞こえた。応じて開いた目は、すでに暗闇に慣れている。
 すぐそこにある階段の終わりの先、ストーと男が組み合う姿は汗の雫までよく見えた。
 男の肩には、乏しい光を撥ねて煌めくものがある。それは軍服の肩に沿って縫い止められた臂章、つまりは軍人の証にほかならなかった。男の上に馬乗りになったストーは、彼の腕を不自然なほどに捻り上げ、その動きの大半を封じている。
「こんなことをしてただで済むと思っているのか、おまえたち!」
 僕が残る階段を降りて行くのに合わせ、彼のわめきは明確な言葉に変わった。言われるまでもなく、ただで済むなどとは思っていない。それはきっとストーも同じだ。
 僕は男の腰のベルトから、真鍮の輪に通されたたったひとつの鍵を外す。
 火事などの有事に備え、拘置所の鍵はひとつで賄うのが習いだ。見張り役が持っていたということは、これが先生を助ける鍵で間違いない。
 男は口から泡を飛ばしつつ、いよいよ大きく身体をよじろうとした。
 もはやその動きに、自分の腕を庇おうという意思は見えない。だからこそとでも言うべきか、対するストーの動きはひたすらに迅速だった。猟兵たちが使う黒塗りの短剣を鞘ごと引き抜き、その柄を男の顔面へ振り下ろす。鈍い音は三度。それきり男は動かなくなる。
「嫌なものを見せた」
 自分が見張りを捕まえている間に、僕が先生を助ければいい。ストーはそんなふうに考えていたのかも知れない。けれどもその望みは、男の思わぬ抵抗によって挫かれてしまった。
 唇を引き結んだ少年の横顔に、僕はかける言葉を持たなかった。もしあの魔術師がここにいたなら、彼にどんな言葉をかけただろう。考えてはみたが、どうにも想像がつかない。
「……でも、殺してはいない」
 しかしながらストーは、自分で言うべき言葉を見つけたようだった。
「理由はどうあれ、あいつは誰も殺さなかったから」
 その横顔には触れがたい硬さが残っていたが、僕はうんと小さくうなずく。
 入れ替わりにストーは深々と息を吐いた。男から奪った鍵を手渡すと、それを使って見張りのついていた扉の錠を外す。
 押し開かれた三枚目の扉の向こうには、意外なことに暖気があった。
 空気もまた、階段よりよほど清らかだ。深々と息を吸う僕を一瞥して、ストーは猫のように音もなく歩き出す。――格子の並ぶ通路の奥に、僕らが求めたひとがいた。
「先生」
 ささやくような呼びかけに応じて、格子の向こうのひとが面を上げる。
「ストー?」
 返る声音には驚きよりも困惑の色が濃い。
 渋染の裾を引いて立ち上がった男は、細めた目でこちらを見た。
「はい、俺です」
「よりにもよって、君が……」
 それはけっして睥睨する目つきではない。単に視力が悪いのだ。その事実を補強するように、頭髪にはずいぶんと白いものが混じっている。
 彼は僕のほうに顔を向けると、より一層に目を細めた。対する僕はほとんど直角に近い形を以て、見間違いようのない礼を取る。
「……街の外の方ですか」
「ルカと申します。トゥーリーズから参りました」
 魔術師はゆっくりと頭を縦に振った。会釈ではない。首肯のための動きだった。
 濁った青灰色のまなこには、恨みもなければ怒りもない。おだやかなばかりの彼の眼差しに、僕はようやくストーの――あの日の猟兵たちの目的を悟った。
「彼といっしょに壁の中に逃げ込めば、あとはエクリール卿が守ってくださるはずです。少なくとも、あの方はあなたの死刑を命じたりしない」
 祈るように、少年は言った。
 にわかに、魔術師が肩を落とす。けっして大きくないその仕草に、これまで先生とストーが交わしてきた言葉の数々を思う。おそらくストーたちは、すでに何度か先生を手引きしようとしたのだ。けれども後がないことを理由に断られ、香炉の先触れの日に僕らが来た。
「ですから、先生、どうか」
 僕の先生とは似ても似つかぬ『先生』は、ストーではなく僕を見る。
「エクリール卿は紙幣と公的書類の偽造に関して、どのようにお考えかな」
「嫌い、ではあるはずです。でも、定められた以上の罪に問うことはないと思います」
「噂に聞くとおりの御方であるようだ」
 低い笑いに、ストーは不安そうな顔で僕と先生を見比べた。まだ子どもと呼び得る年頃にしか見えない彼は、こうして見ると本当に幼子のようにしか思えない。
 先生、と小声で呼ばわった声は、かすかに震えているように聞こえた。
「この場で罪を贖うのが私の終わりだと思っていましたが」
 老いた魔術師は困ったように微笑んで、乾き切った指を以て鉄の格子に触れた。
「出ましょう」
 ストーはずいぶんと長い時間をかけてうなずき、ただひとつ塞がれた房の鍵を開く。外へ踏み出す足音はひそやかで、衣擦れの音を連れている。
 そうして直接向かい合った僕に対し、先生はふわりと頭を下げた。
「リセリと申します」
 家名のつかないその名が、通称であるか本名であるかはわからない。紙幣や書類の偽造に携わるひとなど、得てしてそんなものである。獣だろうが魔術師だろうが例外はない。
 偵察のために駆けて行ったストーの背を見送り、リセリは小さく肩をすくめた。
「ご存知かと思いますが、私は魔術師としてはけっして高尚ではありません。魔術を使いはしますが、最果ての……〈玄冬の君〉にお仕えさせていただけるような者ではないのです」
 うなずきながら、僕は彼の手を掴む。目の悪い彼の前に立ち、ごくゆっくりと格子の間を抜けていく。背後からついて来るリセリは、忍び笑いの気配を伴っていた。
「――ですのにここ数年で、先生などと呼ばれ始めまして。もしも正しく罪を償うことができれば、あの方にお仕えできるような気がしてしまったのです」
「お仕えができるとよいですね」
 偉大なるかたちの獣は、魔術師のすべてをみずからの側仕えとするわけではない。
 彼、あるいは彼女は、魔術師自身が現し世にて果たした業を以て側仕えを選ぶ。ゆえに魔術師たちにとって、形而下の生は修行であり、祈りそのものだ。果ての見えない生き方に嫌気が差して、貴い方に仕えようという意思を失うものもいる。
 リセリはまさにその典型であり、魔術の秘儀を犯罪に使っていた。彼はこの拘置所を出たところで、行先はふたたび牢の中と決まっている。
 紙幣の偽造にまで携わっていたというのなら、収監中の死も充分に有り得るだろう。
「ろくでなしの私が、ひとを救ってみようと思う機会を与えてくれたことだけは、王后陛下に感謝しなくてはなりませんね」
 僕は、黙してうなずいた。
 ――正しいものを愛した母は、けっして正しいひとではない。正しくない道を歩んでいたリセリが、結果として正しい道へ戻る程度には。
「よろしければ今度」
 リセリに救われたひとびとは、誰もがはじめから救われるべきひとびとではなかった。
「僕が会った親子の話をさせてください。あなたに助けられた方々です」
 彼らを救った魔術師の行為は賞賛されこそすれ、本来ならば為される謂れのないものにほかならない。
 そう考えると奥歯が軋んだ。なにが正しくなにが誤りで、なにをどこまで正せばよいと言うのか。すべてを、とひと口に言っても、もう戻せないものは山のようにあるだろう。そもそも僕が言う正しさとは、一体何を指すべき呼称であるのか。
「ルカ」
 思考の水に沈みかけていた頭を現実へ引き戻したのは、階段の上から降る高い声だ。
 どこかから失敬して来たらしい角燈を掲げ、ストーが階段を下りて来る。
「狼煙が上がった。領主邸の警備の連中が帰って来る」
「……彼らは領主を支持するという点において、大変強固な一枚岩です」
 返答に迷う僕に対し、リセリが硬い声で告げる。振り返れば、彼はおだやかな顔に苦いものを浮かべていた。
「あなたがここに来られたということは、おそらく素通しをした連中がいたはずです。このまま行くと内輪揉めが始まるでしょう」
「その混乱に乗じて外に出られませんか?」
 問うと、魔術師は首を横に振った。
「私は早くは走れません。それに……」
「俺たちがどうにかします!」
 ストーの声は悲鳴のようだった。
 軍人同士の内輪揉めといえば、その実情は殺し合いに近い。彼らは全員が全員武装しているのだ。もしも銃の撃ち合いなど始まれば、勝敗は数の寡多によって決するだろう。
 少ないほうが負け、多いほうが勝つ。より具体的に言うならば、僕らのほうが負ける。
「私はあなたたちが死ぬほうがずっと悲しいですよ、ストー」
 苦い笑いを織り交ぜた声で、リセリは告げた。彼には現実がよく見えている。
 ――でも。
「リセリ。あなたが戻ってすべて済むならそれで構いませんが、僕が無事に出られる道理がありません」
 俯いていたストーが、弾かれたように顔を上げた。
「残念ながら、僕の連れは外で陽動をしているんです。……もうひとを撃ってしまった」
 リセリの手を掴んだままの指先に、力を込める。彼をここから逃がすためだけに、僕は絶対にこの手を離さない。そうでなくては、クロイツに合わせる顔がない。
「あなたがいれば、こちらの士気も上がるでしょう。そうすれば僕も逃げやすいはずだ」
 指先から伝わるのは困惑の気配。
 僕の指先が震えていることを、手をつなぐリセリははっきりと悟っていたことだろう。ややあって、深々とした溜息がたしかに耳朶を打った。
「わかりました。私も参りましょう」
 ストーは文字どおりに胸を撫で下ろし、それから慌てて背筋を伸ばす。やはり彼は猟兵であるより前に、年相応の子どもに過ぎないのだ。
「本当に撃ち合いが始まるかどうかはわからないが、覚悟だけはしてくれ。それから……」
「ちゃんと先生は連れて行くよ。僕の安全を保証してもらわないといけないから」
 続けて、くつくつとリセリが笑う。
「私も商売柄、銃で狙われたことぐらいはあります。あまり気負わずに行きましょう」
 恥ずかしいよりも情けのない気持ちを隠すため、僕はそっと指先に込めた力を緩めた。それでも、手を離すことだけはしない。
 獣脂の燃える明かりを頼りに軍人の身体を跨ぎ越し、階段を登って、廊下へと出る。扉を潜った刹那へ耳朶に飛び込んで来たのは、見えない誰かが上げた怒号だった。
 ストーはもちろん顔色ひとつ変えずに聞き流したが、意外なことにリセリもまったく同じ反応をする。彼はかえって涼しい顔をして、行き先である出口のほうへ青灰の目を向けた。
「君と同じ考えのひとは何名ほどいるのかな、ストー」
「十人と少しです」
「なるほど、わかりました。背後からの流れ弾にはあまり注意を払わなくてもよさそうだ」
 濁りの気配が強い目が、そのまま窓硝子の向こうに向く。黙り込む魔術師のかわりに、ストーが僕に説明した。
「領主の子飼いの連中がほぼ同数、陽動で外に出たやつも同じくらいだ。街中の警邏の担当が駆けつけて来ても、倍で頭打ちになる。要は四倍だな」
「多くて四十か」
 敵味方あわせて五十余名の軍人は、トゥーラほどの規模の街には少ないほうだ。クロイツはそのうち何人を撃っただろう。
 ひとりでは装填の時間もかかるはずだから、そう多くはないと思うけれど――
「あいつが敵だけを撃ってくれているよう、祈るしかない」
「……うん」
「後は、本格的に撃ち合いになる前に距離を稼げれば幸運だな。行こう」
 ストーは夜用の黒い外套を翻し、早足に廊下を歩き出す。
 それを追って歩む足取りは、けっして軽快とは言い難かった。
 しかしながら廊下をすれ違った軍人のひとりは、先生に、と軍服の上に羽織る上着を渡してくれた。――ただそれだけのことで、前へ踏み出す気力が湧いて来る。そもそもこれは僕の我儘なのだ。それを通すことをためらう理由など、端からひとつもありはしない。僕はリセリの手を強く握り、ずいぶん懐かしく思える外の土を踏む。
 手を引かれたリセリは抵抗のひとつも見せず、素直に僕の後をついて来てくれた。
 安堵する僕の耳に、またひとつ怒号が届く。ついで乾いた銃声がひとつ。
 ややあって、塀を越えてこちらへ飛び降りる影があった。夜目に鮮やかな白に朱を散らしたその姿は、遠目に見ればひとが丹精込めて育てた特別な花にも見える。
「クロイツ」
 名前を呼ぶより速く地を蹴った彼は、いつもより白い顔をしているように思えた。処女雪めいた頬に飛んだ雫の色が、服を濡らしたものと同じ色をしているせいだ。
「怪我は……」
「してねぇ。返り血だ」
 駆け寄って来た魔術師は、外套の縁で血飛沫を拭う。そうしていつものとおりになった顔で、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……殺したのか?」
「猫に組み付かれたから撃っただけだ」
 竜の子らたる獣の身体は、往々にして頑健だ。もちろんそうでない者も零ではないが、軍籍に属する者であるならまず間違いなく、ヒトとは比較にならない堅牢さを誇る。
 彼らの命を奪うのに必要な銃弾は、一発では済まない。
「信号の狼煙は見たか?」
 クロイツに向くストーの目は、知性のない野良犬でも見るようだった。
「合図の空砲だけ聞いた。どこで撃ったんだってくらい近かったな」
 応じるクロイツの側は顔を緩め、にへらと笑う。
 彼は一層に目を細めると、目線を逸らさずにストーを見た。
「いちおう念のために聞いてやるけど、黙って死ぬなり捕縛されるなりするつもりは?」
「おれたちにそんなつもりがあれば、はじめから先生を助けようなんて思わない」
 ストーははっきりと魔術師の白面を見上げる。まだ幼いと見えた赭の色のまなこに、黒い瞳はなにを見たのだろう。最果ての獣と同じ色の双眸は薄い瞼を閉じ、いくぶん時間を空けてから開いた。
「それもそうだったな」
 川面を渡った冷たい夜風が、血の匂いを運ぶ。
 それは今の僕にひどくとって懐かしい匂いであったし、親しみのある匂いでもある。刃を研ぐ音まで聞こえた気がして、僕はそっと自分の耳を押さえる。
 ――もしも無事にあの丘の街へ帰れたら、またあの工房へ顔を出したいと思った。
「先生については、おまえらにとってただの銃爪でしかなかったわけだ」
 掌の向こうからひそやかな声が伝って来る。
 猟兵は答えず、かすかに唇を噛んだようだった。
「ま、捕縛はまずないだろうな。可哀想だとは欠片も思わんが、先生とやらだけは俺たちが預かってやるから、安心しろ」
 それでも、聡いと謳う魔術師の耳にはなにかの言葉が届いたのか。彼はフードの縁を前へと引きながら、品定めでもするようにリセリを見た。
 背後のリセリが困ったように微笑う気配が、指先を通して伝わって来る。
「せめて短剣を持って行くか?」
 白い布地が持ち主の顔にすっかり影を落とし切ったころ、低い声でストーが問うた。同僚であったはずの男を容赦なく殴った得物は、今は彼の腰に下げられている。
「短過ぎて使い勝手が悪いから嫌いなんだよな、それ」
 言って、クロイツは前を見たように思う。夜の深みを掬って落としたような、黒い瞳で。
 いっぽう、ストーは最後にリセリと僕にひとつずつ頭を下げた。そうして駆け出す足取りに迷いはない。行く先はクロイツが見つめる先と同一だ。
 リセリはなにも言わなかったが、彼は僕より正確に物事を理解していることだろう。
 彼の逃走を防ぐために、それを手引きした人間の処罰のために、もしくはその両方のために、街中に散った軍を集める必要はない。わざわざ労力を割くのは、ほかの目的があるからこそ。それはたとえば、今後の叛意の芽を摘むこと。逃げる羊を囚える柵を築くこと。
 頭数を揃えているのは全員に平等に手を汚させるため。かつての仲間を撃つのは気が引けるから、本当に殺した人間の存在を隠すためでもあるのだろう。そうして全員の首に巻き付いた、けっして切れない縄を綯う。
 それが誰の為になされることであるかを考えると、ひどい寒気がするようだった。けれども僕は唇に犬歯を立てて、震えそうになる身体を叱咤する。
「銃声がしたら出るぞ」
 強く背を押すように、クロイツの声が言う。
「二段撃ちは警戒しなくていいのか?」
「……おまえってひょっとして、自分の仲間が転がってるところにすぐに撃ち込めるほど神経太いのか?」
 問いかけは小さく、呆れたように。
 対する僕は、黙したまま首を横に振る。
 門の外からは、すでに沸き立つようなざわめきが聞こえていた。それは書物の中に見られる潮騒のようでもあり、木々のささやきのようにも思える。
 そして始まりが唐突であったように、終わりもまた唐突だ。
 遅れて訪れた沈黙は、むしろ耳が痛いほど。ふたたび耳を押さえようと持ち上げた指はしかし、続く叫びによって空を掻いたに留まった。
 鼓膜を震わすその声は、言葉というには瓏々とした――――
「撃てッ!」
 獣の威迫。鳥の恐嚇。
 それはたしかに僕らの言葉でありながら、どこまで行っても僕らの言葉と交わらない。
 続く銃声が静かであったように思われたのは、白い影が塀の向こうに落ちたせいだ。ましろの影はただただ大きい。それに対する怒号と悲鳴が銃声を掻き消して、ひどい恐慌が空を伝って来る。
 塀の上から見える影の頭は丸く、冷静になってみれば見覚えのある形状であるようにも見えた。父の膝上で翼を畳んだ鳥の頭は、まさしくあれと同じ形をしていたと思う。
 丸い頭は備えた嘴を器用に使い、悠々と軍人の身柄をひとつ投げ捨てた。その一連の動作を呆然と見つめる僕の背を、今度こそ本当にクロイツの手が叩く。
「ぼけっと見てねぇでさっさと行け!」
 言うが早いか、彼はそのまま駆け出した。振り返ることなくまっすぐに、塀の向こうに続く門のほうへ。
「君は――」
「俺はあっちに加勢して来る!」
 疾風のように駆ける白い姿は、みるみるうちに見えなくなった。
 行きましょうとリセリがささやく。僕は強くうなずいて、地面を蹴った。
「あちらはすっかり混乱しているようですが、流れ弾だけは気をつけて」
 背後の魔術師の声はあくまで冷静だ。ちらと肩越しにうかがえば、彼は塀の向こうで跳ね回る巨鳥の姿を見つめていた。焦がれるにも熱い似た眼差しに、僕はようやくあの鳥の正体を悟る。というより、はじめから悟っていたことを、事実として受け入れる覚悟を決めた。
 あれは、イラテアだ。ヒト喰いによって命をつなぐ、旧い獣の本性。その姿を正面に捉えたまま、僕らは早足で門を出た。
 ようやく辿り着いた街への道は、もはや戦場と呼ぶにも混沌とした有様である。
 巨躯の白梟が暴れる周囲には青い軍服の軍人たちだけでなく、好き勝手な服に青玉をあしらった男女がいる。軍人たちと直接的に争っているのは、イラテアよりもむしろ彼ら彼女らのほうだ。
「トゥーラにあの商会が出入りしているという噂は以前からありましたが、出入りどころではなかったようですね」
 リセリは苦笑気味にそんなことを宣った。
 たしかに軍服を着ていない側の動きは妙に統率が取れている。獣にはけっしてひとりで相対さず、自分たちが孤立することはない。素人目にもわかる、訓練を受けた兵卒の動きだ。
 巨躯の梟は首を回して彼らの奮闘を眺め、危ういと見えた箇所があれば飛びかかって支援に回っている。ついにはその様相を不利と悟ってか、誰かが集合の号令を叫んだ。
 次の瞬間、金目の梟は地を蹴って跳ぶ。
 梟というものは静かな鳥で、かの〈宵守の君〉ユードヴィール――父の獣ですら着地に音を立てることはなかったが、流石にこの場にいる梟の着地は音を伴う。こちらの足元さえ強く揺らぐような、低く鈍い音を。
「駄目だよお、彼らはうちの大事な護衛対象だからね」
 僕らと軍人の間で笑った声は、女のものだ。間延びした口調にも覚えがある。
 ついでに言うなら、僕らの前を塞いだ梟の脚は三本あった。なるほど、それであの義足であったのかと、今更のように合点が行く。
「良いことを教えてあげよう、若人。私ほど旧い獣を殺したいなら、火の魔術でも持って来るよりほかにないよ。なにせ私たちは火に弱いからねえ」
 辛うじて銃声は響いたものの、イラテアは露も気にした気配を見せなかった。目線を向けることもなく、反撃もしない。その事実こそが、彼女の頑強さを雄弁に物語っている。それをまざまざと見せつけられた結果か、続く銃声はなかった。
 白黒の斑の体躯を愉快そうに揺すったイラテアは、三本の脚を入れ替えてこちらを向く。
「無事に連れて来られたようだね。――リセリ殿とお見受けするが、いかがかな」
 周囲の喧騒に構うことのない声音は、いっそおだやかでさえあった。
 リセリは背中を伸ばして、相違ないと彼女に告げる。
「そちらは〈花伏の君〉ですね」
「ああ、そう。そんな名前で呼ばれていた時期もあったねえ。懐かしいことだ」
 イラテアはまた身体を揺すった。次にまろい形の頭を横に傾け、僕のほうを見つめる。
「賭けには負けてしまったなあ。君がリセリを助けようと言わなかったら、彼はわたしが食べていいことになっていたんだけれども」
「それは、その……すみません」
 三度目の笑いは、ふふふとかすかな笑声だけを伴って。
「長生きするとねえ、賭けに負けるくらいはよくあることさ。そのたびに怒って約束を違えていたのでは、ちっとも面白くないしねえ」
 言って彼女は足のひとつを持ち上げた。爪のひとつとっても僕の肘から先ほどある、巨大な足を。もしこの場でイラテアがそれを振り抜けば、僕の体はただそれだけで綺麗にみっつに分かれたに違いない。
 けれども彼女はそれをせず、貴婦人を想わせる仕草で僕の手に触れる。
「君がリセリを助けるのが正しいと言ったら、助力してくれと坊は言っていた。なのでこの場の私は、間違いなく君の味方だ」
 旧い獣の声音に、ひとつうなずく。
「して君、私の脚にしばらく掴まっているくらいはできるかい」
 怖いと思う気持ちは、正直なところたしかに存在する。
 しかしながら今は幸いなことに、銃声と怒声が一団となって僕の背中を押してくれる。だからこそ、イラテアの脚に触れ返した指先に震えはなかった。
 今の僕が一番恐れて然るべきは、この場から離脱できないことだ。
「ここはうちの傭兵に任せておけばいい。私がいなくたって、彼らはうまいことやってくれる。今はクロイツもいるしね」
「はい」
 リセリの手を離し、力を込めてイラテアの足にしがみつく。
「とりあえず君は、しっかり掴まることだけを考えなさい。できるだけ下は見ないでね」
 横目で見やった初老の魔術師は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。彼に対してイラテアはきゃらきゃらと笑う。
「あなたは背中に乗せて行くよ。安心なさいな」
 言うが早いか、梟はリセリの身体を銜え上げる。首を捻って彼を背中に乗せる仕草を眺めながら、僕はそっと奥歯を噛んだ。鳥の飛翔には詳しくないが、乗馬の経験ならいくらでもある。それに伴う記憶が、この場で口を開けているのは危険だと吼えていた。
「飛ぶぞ、撃たせるな!」
 聞き慣れたはずの声が、聞いたことのない凛とした響きを弾かせる。
 その声の主を地上に残して、イラテアは翼を打った。ただそれだけの動きで、靴の踵が地面から離れる。もしも奥歯を噛み締めていなければ、僕の唇から溢れていたのは痛烈な叫びであったに違いない。
 イラテアがもうひとつ羽搏けば、いよいよ爪先も土から離れる。
 寄る辺のないその感覚は、馬上で鞍に跨るときとは質が違った。世界が終わるようなと言うと大袈裟だが、感覚としては近いと思う。
 なにせイラテアは梟だ。その飛翔は連れる音を持たず、それゆえに浮遊感はどこまでも空虚に感じられる。戸惑う間に、僕の目は防雪林の木の先を捉えた。葉を絶やさない針葉樹の昏い緑も、見る見るうちに眼下へ落ちて行く。
 更に下へと目線を滑らせれば、ひとの姿など玩具のようにしか見えなかった。
 それでも、その仕草のひとつひとつが見えないわけではない。中でも、誰かが銃口を上げるのは特段はっきり見えた。その頭を銃床で以て殴り飛ばした小柄な影の動きも、同じく。
「いやはや、あの子は何年経っても変わらないなあ。というか悪化したな、あれは」
 さえずりにも似たささやきに、僕はおそると顔を上げた。
「そういえば君、クロイツと付き合いは長いの?」
「いいえ」
 僕とクロイツの付き合いはせいぜい数日のことである。彼はそれまで、アルシリアのほうに派遣されていたはずだ。たしか期間は数ヶ月――僕がアルシリアを経由したのも数ヶ月前だから、ひょっとすると馬車の内外ですれ違うくらいはしていたかもしれないが。
 イラテアはふぅんとヒトじみた声を発したのを最後に、ようやく翼で風を掴んだ。
 支えのない足が揺れはしたが、怯えの気持ちはもうほとんど湧かない。頬を叩く風の冷たさだけが、はじめて馬を走らせた日のそれによく似ていると思った。
 そろそろ夜半も過ぎようという刻限のはずだが、眼下に見えるトゥーラの街並みには、いつしか煌々と明かりが灯されていた。空を飛ぶのははじめての経験であったが、こうして見下ろす景色はさながら夜空のようだった。
 街の灯を星と見做すならば、川面を揺らめく光は銀河であり、鐘楼が掲げた角燈の火はひときわ明るい一等星。遠く彼方に見える領主邸に至っては、連星にたとえてもよいだろう。
 これが僕らの起こした騒乱に伴って点けられた明かりでなければ、僕は快哉を叫んでいたはずだ。あとは――足元がもう少し安定していれば。
「この格好は久々過ぎて、うまいこと旋回できない気がして来たぞう」
 しかもイラテアはそんなことを言う。僕は彼女の脚を掴む手に力を込めた。
 巨大な梟に頭上を飛ばれる街の住人は怖いだろうが、その脚に掴まって飛ぶのはもっと恐ろしい。だから今、僕がひとつ叫ぶとしたら、恐怖を訴える悲鳴が最優先である。なにせ僕のたったひとつの命は、彼女の飛行技術に賭かっているのだ。
 川面を抜けて吹く風は冷たく、指の感触が曖昧なのが一層に恐怖を煽る。
「なに、でも安心したまえ」
 それでもこの国随一の商会を抱える獣は、朗らかに笑うばかりだ。たぶん、彼女は僕の状況と心情にはあまり構っていないのだろうと思う。
「私は空中にいる鷹くらいは余裕をもって捕らえるからな」
 つまり落としても捕まえてやるぞ、ということである。
 もしかすれば彼女なりの気遣いゆえの発言かもしれないが、そもそも空中に投げ出すこと自体をご勘弁いただきたかった。
「……すみません、なにかよい術があればよかったのですが」
 降り落ちるリセリの声に、僕は首を横に振る。だが、イラテアの背に乗った彼から、こちらの姿が見えているとも考えにくい。
「お気になさらず!」
 慌てて返した声に応えはなかった。もしかすればどちらかの声が風に紛れてしまった結果かもしれず、リセリがこちらに気を遣った結果かもしれない。理由がどちらであるかを判別するより先に、イラテアが大きく翼を広げた。川をさかのぼる形で滑空していた彼女は、そのまま大きく身体を傾ける。
 山から吹き落ちる風に、梟の体躯は一瞬だけ速度を失った。
 風の音さえ消え失せたその間隙から抜け出した刹那、僕はたしかに風に「乗った」という感覚を得る。
 雪の白と緑を抱く山肌、川面の星々、家々と鐘楼の灯り、雲間に覗く不円の月。幻燈函めいて回る世界を眼裏に残し、旧い獣は街道のほうへと梶を取る。
 閉じた瞼を開いたとき、意外なほど近くにまろやかな形の丘陵が見えた。同時に、目印がわりの針葉樹と里程標の姿も。
 同じものを目にしたと思しきイラテアが、大きく翼を打つ。同時に彼女は脚を下げ、僕の身体を降ろそうという挙動を見せた。ここに来て振り落とされてはたまらないと両腕に力を込めた刹那、茂る枝葉の下から飛び出した影がひとつ。――ヴィガだ。
 彼が両腕を開くのに合わせ、イラテアはいよいよ本格的に高度を下げる。
 最後はヴィガの頭上を掠めるようにして、再度空へ。
 そのとき、僕の身体はヴィガの太い両腕にしっかりと抱えられている。肥満体にしか見えていなかった彼の腕は、触れてみると冗談のように硬かった。
 健脚どころの騒ぎではないな、と僕は思った。
「すみません、なんだかぼんやりしていたようで……」
 抱かれたまま声を上げると、ヴィガはよく通る声で笑う。
「人間なら誰だってそうさ。おれも心当たりがある」
 彼の腕から降り立った丘陵には、見覚えのある二頭の馬の姿があった。
 それからもうひとつ、馬の影から覗く白い姿も。
「おまえらはな、揃いも揃ってすっとろいんだよ」
 魔術師は舌打ちに続けて言い切ると、枝葉の隙間から空を見上げる仕草をした。倣って上を仰げば、はるかな遠い空をイラテアが舞っている。こうして見る彼女は、ひどく美しい白の鳥だった。かつて見た父の獣の姿も、あれと同じ優美さであった憶えがある。彼の姿は雪花のようであったが、イラテアの姿は夜の帳を開いて届く、彼方から射す光のようだった。
 ――などと思ったのも束の間、白い鳥はふたたび大きく旋回する。
 その姿は瞬きより早く視界を埋め、かと思えば唐突に縮んだ。三本の脚が一本に戻り、二度三度と雪上を跳ねる。彼女の肩にしがみつくリセリが、跳躍の都度大きく揺れた。
 ヴィガは慌てて彼らに駆け寄り、両者の身体を引き剥がすと同時に支えてやる。
 黒い瞳の魔術師は、一連の出来事に呆れ返った眼差しを向けていた。
「……加勢は?」
 問うと、彼はわずかに肩をすくめる。
「して来た。で、割と早くに片がついたから、ここまで迎えに来てやったわけ」
 いつもの外套の白さを失ってなお、その顔ばかりは透けるように白い。ただただ美しい面に浮かんだ表情に関しては、やはり呆れを透かしたものでしかなかったが。
「おまえが降りられないと思ったもんで」
「……ごめん」
「いいってことよ。おまえが死んだら次は俺の番だからな」
 言葉とともに、彼は顔を緩める。ひどく愉しげな表情に釣られて、僕も口の端を上げる。
「そういえばクロイツ、君さあ、まだうちに帰って来るつもりはないわけ」
 いっぽうヴィガの肩に凭れたイラテアが、横合いからそんな言葉を投げた。
「やっぱり君がいないと、私なしで総出の荒事ができないんだよねえ。地味に困るんだ」
「一生そのままやってりゃいいだろ、死ぬわけでもねぇくせに」
「だから余計にヤなんだよお。ヒトが滅びるまで前線指揮官なんて冗談じゃない」
 クロイツは彼女の姿を見ることもなく、せせら笑いで問答を終えた。
 見ればイラテアは唇を尖らせて、ひどく不服げな顔を作っている。ついでにヴィガの逆の肩に掴まったリセリの顔は、蒼白を通り越して土気色だった。しかしながら手を差し伸べると、もうだいじょうぶだと固辞してみせる。言葉のとおりにみずからの脚で立つ姿まで見せつけられれば、僕にできることはもうなかった。
 所在のない気分で、僕はなんとはなしにイラテアとクロイツの姿を見比べる。
「ちなみに君、ラリューシャのところを出たのはどういう風の吹き回し?」
「誰が話すかよ」
 かつての雇い主であるイラテアに対し、クロイツの態度は辛辣そのものだ。彼にとって荒事で生計を立てていたのは昔の話で、今は興味も愛著もない――そんなふうに見える。しかしながらイラテアは、その態度に気を悪くした気配を見せなかった。
「それもそうか。私はまだ君の母上とも親交があるもんねえ」
「というかそもそも、俺はおまえのことを一切合切信用してねぇから」
 舌打ちの音はなにをどうしたのか、ひどく大きかった。
 遅れて目線を感じ、首を巡らせて見やれば、居た堪れない表情をしたヴィガと目が合う。
「で、この魔術師は俺たちが連れて行っていいのか」
 とかく今夜のクロイツの声には、いつも以上に攻撃的な気配が濃い。いつものものがひとを殴るために棒を構えている類の害意だとすれば、今日のそれは抜き身の剣を突き付けるような殺意にたとえられる。
 その語調で話題に出されたリセリが、わずかに表情を固くするのが見えた。
「もちろん! と言いたいところだがね」
 イラテアはそれこそ梟のように、頭を真横へ傾けた。
「彼のこと、私に預けてみる気はないかい?」
 尖晶石のまなこを眇めて、クロイツはかつての主人を見た。言葉はなく、イラテアの側は僕を見ている。彼女の問いが向けられている先もまた、魔術師ではない。僕だ。
「彼は私たちが責任を持って、蜘蛛の巣谷――オルトヴィロウの大学府へ連れて行く」
 懐かしい名前を耳にし、僕は目を細める。
「それがどういう場所であるか、ご存知なのですね」
 蜘蛛の巣谷の異名で知られるオルトヴィロウは、石灰棚の崖をつなぐ橋の上の都市だ。立地としては王都に近いが、その中心となる学府は王立のものではない。
 学問の中立を謳うかの都は、王妃――次の王母となる女の生まれ育った土地でもある。
「無論だとも」
 イラテアの答えには淀みがなかった。
 その響きに、僕は見たこともない伯父へ思いを馳せる。肖像でしか見た覚えのない蜘蛛の巣谷の長は、妹との不仲で有名だ。ゆえに彼は王都からの干渉を強く拒否する。同時に彼が治める蜘蛛の巣谷もまた、学都の自治を守るためなら一糸乱れず法を守る。
 それを思えば、蜘蛛の巣谷はリセリを裁くのに最適の場所とも言えるだろう。
「リセリ。あなたはそれで構いませんか」
 初老の魔術師は微笑んだ。
「初戦私は、死後のお仕えに惹かれてヒト喰いの獣を呼んだ男です。彼女の胃に収まって世界の終わりを待つことに比べれば、どこでもましですよ」
「せっかく来てやったのに、つれないなあ。別に気にしないけれどもさ」
 やはりイラテアは、リセリのことを食べたいと思っていたのだろうか。ならば悪いことをした。生爪のひとつでも譲渡すべきかと考え出したころ、放っておけとクロイツが言う。
「で、いいんだな。この女に任せて」
 低い声での念押しに、僕はひとつうなずいた。
「うん。任せます」
「承った。料金については、もののついでで無料にしておいてあげよう」
 イラテアは破顔した。ついで彼女はとんと片足で跳ね、中空で小さな影を象る。
 地面ではなくヴィガの肩へと降り立った姿は、先の自身とは似ても似つかぬ小さな白梟のものだった。
「ではリセリ殿、街道から少し離れよう。さすがにこの私が日に二度も近くを飛び回ったのでは、トゥーラの住人に申し訳がないからね」
 リセリは否とは言わなかった。ずいぶん血色を取り戻した顔で、イラテアに対する答えのかわりに僕を見る。左胸に掌を当てる仕草は、かつて王宮で目にした魔術師式の最敬礼だ。
 こうして並んでみると、リセリは意外と上背があった。見上げる僕の視線に微笑んで、彼は深々と頭を垂れる。
「いずれはオルトヴィロウへ参ります」
 対する僕は礼を取らず、ただひとつ、その言葉だけを返した。
 ――魔術師たちは嘘をつかない。ゆえに、リセリは何も言わない。
 けれども僕は嘘を許されたヒトであるから、ただ彼の旅の餞に、慰めの言葉を渡すことができる。
 顔を上げたリセリの背中を見送り、僕は心の底から彼の旅路の無事と幸いを祈った。