三:大嘘つきたちの夜 vii

 三者の姿がすっかり見えなくなったのち、僕らは馬上のひととなった。
 金を払って回収して来たという馬の上から、クロイツは嬉しそうな顔で僕に滞在証の割符を投げ渡してくれる。聞くに、これは官吏に金を握らせて回収して来たものだという。冗談だろうとは言えなかった。クロイツは魔術師であることを差し引いても、そういう男だ。
 さらに付け加えておくのなら、あったかもしれない否定の根拠はすでに亡い。僕らの母が愛して止まない正しさなど、もはや彼女と相対する者の中にしか残っていないのだから。
「証書偽造はおまえが言うように、死刑には該当しない。だから王都に泣きついても、自分たちが叱られるのが関の山――おかげさまで俺の元同僚は、今ごろ臨時収入で大騒ぎだ」
「そういう君はもらってないのか、臨時収入」
「袖の下で丸ごと消えたのをもらったって言うなら、もらったぞ」
 魔術師たちは、嘘をつかない。けれどもそれを遵守するためには、やはり並々ならぬ努力が要るようだと僕は思う。
 徒歩でトゥーリーズまでを踏破すれば、一日では到底時間が足りない。つまり明後日には絶対に間に合わないわけだから、彼はどうしても馬を入手する必要があったのだろう。
「……出すよ、半分」
「いいっていいって、気にしなさんな」
 クロイツの声に棘はない。ゆえに、僕はなんとも居心地の悪い気分がした。
 うろうろと泳がせた視線はしかし、なにか自分の気を紛らわせるものを見つけるには至らない。街道は来たときと同じだし、周囲に至ってはもっと変化がない。
 そして結局のところ、僕はまっすぐに前を見る。
「……話をしてもいいかな」
 不明確な〈なにか〉のかわりに気晴らしの種を求めた先は、自分の裡へ。
「というより、聞きたいことがあるんだけど」
 より正確には、会話の緒へ。
 クロイツは僕より少し前で手綱を握ったまま、いいよと小さく答えた。
「答えられることならな」
 彼は韜晦することのない魔術師だが、いかなる問いにも答えをくれるわけでもない。そんな彼の態度は今の僕にとって、むしろ好ましいように思えてならなかった。
「君のことなんだけど」
「内容による」
 返答は、ひたすらに早い。僕は嘆息してから、慎重に言葉を選ぶための時間を取る。クロイツは意外にも、それを急かすようなことをしなかった。
 それだけの事実に安堵しながら、ようやく選び終えた言葉を投げてみる。
「君、やっぱり魔術師の家系の生まれなのか」
 真意を隠すための衣ならいくらでもあったが、ここにおいてそれを使うことはしない。仮に使ってやったところで、ああだこうだと言われるのが関の山だ。
「違う」
 応えはやはり早かった。そして、短い。端から否定されるような気はしていたけれど、その速度たるや、僕をたじろがせるには充分すぎる。
 おかげで続く言葉を発せないままでいる僕に、クロイツはひとつ溜息をついてみせた。
「俺の家は割と普通の貴族の家だよ。親父は王宮勤めで、お袋は家にいる」
 では、と僕は黙したまま考える。彼の父はもしかすると、僕の顔見知りであるかもしれない。名前を聞けばわかる相手である可能性も、けっして低くないはずだ。だと言うのに、僕はそれを言葉に出して問うことができなかった。
 なぜなら僕は、クロイツという名の息子を持つひとと、王宮の中で会ったことがないからだ。つまりなにか、前提がおかしい。欠けている。
「おまえの親もそんな感じだろ?」
 僕の戸惑いに構わず、クロイツのほうが言葉を連ねる。すかさずうんと肯定を返しはしたものの、それは僕があらかじめ用意していた返答のひとつでしかない。
 王都に暮らす貴族は、その大半が王宮に仕える者だ。だから、この類の質問は肯定しておけば面倒がないのである。
 クロイツは手綱を操って馬の足を緩めた。そうしてすっかり僕に並んでしまってから、こちらの顔を覗き見て来る。
「ま、俺の家の場合は領地が北のほうなんだけどな」
 にへらと笑う顔は子どものようだ。くだらない秘密を打ち明ける、少年の笑み。
「ということは、領地から参内なさっておられたのか」
 呆れた気分で僕は答えた。王宮で働く貴族には、土地を持たない名誉貴族と、王都に別宅を構えて暮らす地方領主の二種がいる。エクリールの家は前者であるが、クロイツの家は後者というわけだ。そこまで考えを巡らせて、僕も顔を横へと向ける。
「君もいずれは家督を継いだり――はしないか。兄君がおられるんだもんな」
「半分当たり。兄貴はまとめて流行り病でくたばったが、継承権は弟のほうに行った」
 次に、首をかしげる。
「兄君が全員亡くなられたのなら、継承権は君が得るものだろう」
 家督というのは往々にしてそういうものだ。はじめは長子が継承権を得るが、死去するような事態があれば直下の子どもに継承権が移行する。
 エクリールのように長子が家督の継承権を捨てた場合なら、次男が得た権利を放棄することによってはじめて、三男以下に権利が回る。その例外の筆頭は父母が別の家に属する場合だが、クロイツの話ぶりにそんな気配はうかがえなかった。
 次に考えられるのはエクリールと同様、上の兄すべてが放棄した場合だが、これもやはり当人の言葉からは考えにくい。となれば――
「君、」
 考え得るのはただひとつ、さらなる例外だけだ。それは僕が思い出せるだけの一般性を持つものの、目の前の男にはどうにも似合わないように思えてならない。
「神官だったのか」
 なにか合図の力加減を間違えたのか、月毛の馬が大きく首を振る。慌ててそれを制すべく手綱を引いた僕の姿に、クロイツは大笑した。にわかに彼が乗る鹿毛のほうも嘶いて、彼も似たような行動を実施する羽目になる。二頭を常歩に戻すには、短くない時間が要った。
「丸をつけてやりたいところだが、残念、これも半分だけだ」
 真面目に前を眺めながら、クロイツは虚空に弧を描いた。真円にはしない。
 ――僕らは周辺諸国のひとびとが崇める〈偉大なるもの〉を示す呼称に則り、自分達が尊ぶ最果ての獣を〈神〉と呼称することがある。
 両者は厳密には異なるものであるが、手の届かないものであるという点については大差がないからだ。その延長として僕らは、現世において竜を奉ることを生業にする者たちを指して〈神官〉と呼ぶ。
「見習いでやめちまったからな」
 僕の解答に半丸を与えた魔術師は、みずからの正体をそう称した。
「……ご両親、怒っただろう」
 家から神官を出すことは、一族から魔術師を輩出する以上の栄誉である。かわりに神官となる子どもは家との関わりを失うが、家が得られるものは大きい。
 神官として務めさせた子どもが逃げたということは、その利益も誉れも、同時に跡取りの予備も一挙に失ったということに等しい。それに伴う彼の両親の落胆については、想像することさえ恐ろしかった。
「どうだろうなぁ」
 返答はどこか迷ったふうだ。けれどもいつもの僕がするのと同じ、言葉そのものに対する迷いではない。
「先生ともあれから連絡は取ってねぇし……便りがないのはなんとやらってところか」
 本当になにひとつ知らないから、言えることがない――そんなふうに聞こえた。
「そっか」
 彼が言う先生は、もちろん僕の先生ではない。リセリのことでもない。
 おそらくは彼が見習いを務めていた場所の、本物の神官のことだ。
「……先生は、よい方だった?」
「おう」
 返答は常のとおりの早さ。僕は、ふたつの音の短い隙間に「先生」の姿を探す。
 けれどもそれが見つかるより先に、クロイツはふたたび口を開いた。銀の鈴の音が語るのはただただ、かつて暮らした神殿の上の種々である。
 薄氷よりほかに橋渡しを持たない水上の宮。終日竟夜、竜へ捧げるための物語を書く作業のこと。獣皮から保存の効く紙を作るための方法。湖の氷を割る儀礼。師でもあった本物の神官が紡ぐ、詩編の数々――旧い言葉をつなぐ旋律は抑揚に乏しく、しかしながらやわらかに僕の耳朶を打つ。
 こうして聞く彼の声は、祭具に近しい祈りの側に属するものだった。
 職人たちがひとつずつ手で作る蒼玻璃の香炉と、それを示す鈴、儀礼の前触れとして吹かれる石笛――それらと同じ、斯く在れかしと誰かが願った事実の具現。
 そういう声を出せるようにと、誰かが心を込めて育てたかたち。
 彼が紡ぐ歌の響きは、いつかに聞いた子守唄に似ている。歴史のどこかへ正確な語意を落とした言葉たちが、優しい意味合いのものだけを、今の世へと伝えているからだ。
 もっとも残念なことに、クロイツは僕を寝かしつける目的でそれを唄っているわけではない。どちらかといえばその逆、僕を起こすために唄っている。
 思い返してみれば一連の話も同く、僕を起こしておくためのものだった。
 ――天を仰げば、すでに夜は白みつつある。
 見るべき方角を見やれば、夜はその帳を上げる用意を整えつつあるだろう。要するに、僕もそろそろ一夜を徹する。眠気の波はちょうどすぐ間近まで来ているが、半端に意味のわかる歌は、それを防ぐにはちょうど良かった。
 おそらくもう少し経てば、眠気は一周回ってどこかへ行ってしまうはずだ。
 いっぽうクロイツは口許だけを動かしながら、まっすぐに前を見ている。唇からまろび出る歌は、おそらく彼にとっても尊き御方へ加護を請う歌なのだろうと僕は思った。
 詩篇の響きを従えて至った三叉路の先は、馬たちが歩きやすい道ではない。
 此処から先、鞍の上でうとうとしていたのでは、なにかの拍子に落馬することも充分にあり得る。ついでに延々喋っていたりすると、舌を噛む可能性も大きい。
 トゥーリーズへ続く雪道へと入るのと同時、クロイツはぴたりと口を噤んだ。
 僕もそれに倣って黙り込み、聞いたばかりの話に色をつける作業に入る。
 陰影相混じり合って揺蕩う水面は透明な青、神殿の壁は色の一切を拒む白。脳裏にまざまざと風景を描く作業を続ければ、寝入ってしまう恐れは少ない。
 ついでに、馬の歩みから伝わる上下動もなかなかのものだった。もはや眠気が訪れる要素はないままで、僕らは白んだ空の下にある灰色の壁を見るに至る。
 銀の名を冠した壁の姿は、なぜだか妙に懐かしい。
 思えば僕はもともと王宮の暮らしで、城壁の内側の住人であったのだ。壁の姿はあって当たり前、という認識があるのかもしれない。
 ただし残念なことに、トゥーリーズの壁は王宮のものとは違い、見えて来てからが遠い。
 僕とクロイツは一瞬だけ目線を交わすと、どちらからともなく馬の速度を上げた。駆けるとは言い難い足取りは、壁を出たときよりもいくぶん遅い。
 おかげで僕は、心行くまで壁の姿を拝むことができた。いつか王都から来たときには見ることのなかったその威容は、どこまで行っても同じように堅固に見える。
 造り手である街の住人たちの誇りを反映した姿は、なるほど〈銀〉の名を戴くに相応しいように思えた。たしかその名をつけたのは、戦時中の国王の相談役――先生から見て何代も前のひとだと聞いたが、彼も僕と同じ感想を抱いたに違いない。
 そうして付けられた名は、職人たちの誇りそのものでもあるはず。
 なにせ僕の先生を含め、歴代の王の相談役はただの相談役などではない。彼らは竜より神託と呼び得る詞を受け、その名代として王の導き手を務めるヒトだ。王太子は彼らの前に跪き、その手から王冠を授けられ、生前からの諡を受けてはじめて王と呼ばれる。
 ゆえに王の相談役から名を授かることは、この国において最大の栄誉のひとつであるとされた。またその逆に、歴代の相談役の側にとっても、名付けはもっとも重要な仕事のひとつである。君のきょうだいにはなんと名付けるべきかと笑った面は、今でもまざまざと思い出すことができる――
「ルカ様!」
 聳える〈銀の壁〉の手前で僕らを迎えてくれたケイは、僕らが彼女の姿を見分けるより先にそう叫んだ。それを聞いて、嗚と思う。
 あのときイラテアは、獣の目は王の血統を見分けるものだと教えてくれた。
 音でもなく匂いでもなく、彼女の青黒の瞳はそれを以て僕をルカと呼んだのだ。彼女が親しいはずのクロイツではなく、僕を。――ひと息に駆け寄って来た女は、クロイツの姿を認めると同時、鼻面に皺を寄せて顔を逸らした。
「……火薬と血。ひどい臭いだ」
 もし今のケイに尾があれば、雪を撫でて不快さを示していたことだろう。
「知ってるよ」
 対するクロイツもまた、彼女に対する忌避感を隠すことをしなかった。ただしそれを口に出すことはせず、黙って僕のほうへと手を差し出して来る。手綱を渡せという合図だ。
 応じて馬を降りようとした僕を制したのは、並の男よりも大きなケイの掌だった。
「エクリール様が温情で、おまえを壁の中に入れてやるようにと仰せだ」
 にわかにクロイツが目を眇めた。
 歪に細められた瞼の奥の黒色には、明確すぎるほどの不信の気配が宿っている。
「馬はわたしが預かる」
 それでも彼はするりと馬を降り、手綱をケイへ手渡した。僕もそれに倣ったが、彼女に曳かれた馬たちは、激しく首を振ることで叛意を示す。
 ――どうやら馬たちもまた、獣を見分ける感覚を持っているようだった。女はぐるると唸りを上げ、なかば力任せに手綱を引っ張り始める。
「アマリエがエクリール様から指示を預かっているはずだ。わたしからは以上。……それからクロイツは後でわたしのところに来い」
「俺は用がねぇから来ない」
「おまえ!」
 咆哮じみた声色に応じ、鹿毛の馬が前脚で雪を蹴った。女はまた唸りを上げてから、両手で手綱を掴み直す。
 それを見たクロイツは顔に似合わぬ笑いを上げ、壁に向かって歩き出した。
 背中越しに振られる掌を見たケイは、無言で肩を落としてみせる。そんな彼女に頭を下げて、僕もまた壁のほうへ駆けて行く。
 勝手口はふたりで潜ったが、誰も僕らに声をかけて来ることはなかった。
 軍人たちの姿は見えるが、誰しも言葉に迷っている――そんなふうに見える。クロイツは彼らを一瞥すると鼻で笑って見せ、大股に細工師通りへ舵を切った。通りとは名ばかりの長い階段へ差しかかると、さも当然のごとく手摺へ飛び乗る。
 挙動の迷いのなさに対し、僕は少しだけ目を細めた。
「ひょっとしてそれも、見習いのころの名残りだったりする?」
「それについては全部当たり」
 細めた目を瞠ると、頭上から鈴を鳴らすような笑いが降って来る。
「……って言っても神官の仕事とはなんにも関係ねぇよ。先生が気の向いたときにやってたのと同じ、ちょっとした願かけみたいなもんさ」
「願かけ」
「先生は俺より少しは真面目なひとだったから、もっとまともな願をかけてたけどね」
 そんなものかと尋ねると、そんなものだと笑う。
「ちなみにどんな願をかけてるの」
「必勝」
「……僕から見れば、君には必要なさそうだけど」
「上には上がいるものだよ、ルカ君」
 僕が緩やかな階段を登り切るのと同時に、クロイツもまた爪先で手摺を蹴った。音もなく広場のタイルへ降り立った彼は、そのままくるりと回って僕のほうを振り返る。釣られて広がる白の外套は、黒ずんだ血の汚れを帯びてなお、舞手の衣を思わせた。
 さらにそれを従える当人の仕草にも、いつもよりも楚々とした優雅さがある――と思われたのは、僕が彼の正体を知ってしまったがゆえの錯覚だろうか。
「正直なところを言うとな、俺は厳密に願をかけてるわけじゃねぇのさ。でも、そいつを欠かしたから負けたんだって思うのは、俺に勝った相手にも失礼だろ」
 言葉も妙に理知的に聞こえる。
「たしかに」
 やはりこれは自分の錯覚だなと算段を付けながら、相鎚をひとつ。
 だろうと笑うクロイツの後をついて、広場を抜けるために歩き出す。ふたりで歩調を合わせて向かう先は、領主邸の囲いのほう――無人であるはずの見張り小屋の影を見て、ようやくこの街に帰って来たのだという気分が湧いた。が。
「アマリエ、帰って来たよ」
 見張り小屋には珍しくひとの姿があった。しかも、ふたつ。片方は大きく、もう片方はやたらと小さい。役所と詰所兼役所を合わせても、ほかに類を見ないほどの小ささだ。
 窓の外に僕らの姿を見出すと、彼女は包まった毛布の中で、形容し難い声を上げた。
「そ、それ! なんで!」
 思うに、言いたいことは山とあったのだろうと思う。
 その中でアマリエが唯一表すに至ったのは、クロイツの外套の汚れについてだった。言葉とともに指差されたクロイツは、さも呆れたとばかりに肩をすくめる。
「別におまえが洗うんじゃねぇんだから、別にいいだろ」
「それは当たり前です!」
 アマリエとともに見張り小屋に詰めていた軍人は、すっかり興奮し切った少女を宥めるべく、どうどうと声を出す。が、そんなもので静まるアマリエではなかった。
 ドアがわりの毛氈を引きちぎりそうな勢いで飛び出して来て、なぜか僕の姿を上から下まで検分する。それが終わったら今度は側面。時間をかけて僕の周囲を回り終えてから、クロイツのほうへ大股で近づく。
「あなた、ちゃんとルカさまをお守りしたんでしょうね!」
「したした、しました。完璧。一分の隙もない感じで」
 クロイツは諸手を挙げて降参の姿勢だ。
 それほどまでにアマリエの勢いは凄まじかった。ただのヒトの目しか持たない僕から見ても、なにかおかしなものが見えてしまいそうなほどに。
「アマリエちゃん」
 けれども彼女の相方たる軍人には、勇気があった。
 毛氈を引き上げて出て来た彼は、手にした紙をひらひらと振る。
「エクリール様から預かって来たんだろ、手紙」
 畳まれた紙には封蝋が捺されている。
 光の加減で銀粉を透かす青い色彩に刻まれた紋は、狼と剣。これについては目視でたしかめるまでもなく、僕が元から知っていることだ。天藍石にも似たあの青は、エクリールの生家が使う特注の封蝋である。
 封蝋集めを趣味にしていた僕のきょうだいは、あの色の封蝋がついた手紙をもらうとひどく喜んでいた――ので、きょうだいの代役を務めていた僕もまた、あれをもらったら喜ぶことを心がけていた。おかげでどうにも印象が深い。
「そうです! そうでした!」
 手紙を受け取ったアマリエも、外した封蝋をポケットへとしまう。ひょっとしたら彼女もあの封蝋がお気に入りなのかもしれない、と僕は思った。
「……まずお二方ともおつかれさまでした」
 紙面を改めたアマリエは、落ち着き払った様子で僕らに向き直る。
 僕はなんとはなしに姿勢を正して続く言葉を待った。クロイツは外套のまだ白い部分を摘み上げ、汚れの具合を調べていた。
「まずはえーと、少し休みを取りなさいとのことです。夕方になったら、これは……」
「呼び出すので」
「呼び出すので!」
 アマリエの傍らで、軍装の男が鷹揚にうなずく。
 上背がある割にひと懐こい顔をしたこの男は、僕も何度か言葉を交わしたことのある相手だ。眉尻の傷ゆえに人相は悪く見えるが、話せば気安いひとであったと記憶している。
 彼はクロイツに向けて、上着を預かろうかと小声で問うた。
「気にすんな」
 魔術師の返答は短いが、ぞんざいではない。
 ついで袷を掻き合わされた外套の汚れは、元が血であったとは思えないほど赤味を失っている。僕の鼻では血の匂いを知覚できないのも、気温の低さだけが原因ではなかろう。
 その証拠に、アマリエも汚染の正体に気づいたふうはない。
 だからこそ彼女はしゃんと胸を張り、
「休む前にそれを洗うのですよ!」
 などと宣うことができるのだ。
「わかってるよ、うるせぇな」
 クロイツはさぞや億劫そうに応じてから、アマリエを避けて塀の向こうへ歩き出す。僕に向けて頭を下げた軍服の男が、小走りでそれに続いた。
「僕らも帰ろうか」
 言うと、アマリエはうなずく。
 おずおずと手を伸ばして来る仕草に笑って、僕は彼女の手を取った。
「……行かれたのはどちらですか?」
 先んじたふたりの姿が見えなくなってから、アマリエはささやく声音でそう問うて来た。
「トゥーラのほうだよ。いくら馬でも、たった二日でアルシリアとは往復できない」
「そうですか……」
 エクリールの幼い侍女は口許に手を当て、なにかを考え込む仕草を見せる。結い髪をほどいた頭を見下ろしながら、僕は小さく首をかしげた。
 アマリエが顔を上げると、ちょうど目が合う。
「ルカさまは、アルシリアへも行かれたことがありますか?」
「そうだね、いちおうは」
 アルシリアは翠珠山脈と王都の中継地点だ。山道を通ってトゥーリーズとトゥーラへ入るなら、そこを通らない者などいない。
 王都から馬車に乗ってトゥーリーズを目指した僕も、もちろん例外ではなかった。
「でも残念なことに、窓から景色を見たりしたことはないんだ」
 ――僕はそのとき加減が悪く、馬車の窓の鎧戸を開くことができなかったから。
 アマリエはなるほどとひとつ首肯した。それからまた少し沈黙を挟み、僕の顔を斜に見上げる。
「山道はどうですか? 馬車の鎧戸を開けたりは?」
「してはもらったんだけどさ」
 僕は苦笑しつつ、宿舎の勝手口を開いた。
 足を踏み入れた厨房にひとの姿はなく、建物の中はしんと静まり返っている。
 そこに至ってなお、アマリエは僕の手を離そうとしなかった。彼女が希求するものの変化を悟り、僕はそっと膝を折る。
「外を見ていると余計に酔う有様だったから、山道もほとんど見ていないんだ。……なにか気になることでもあった?」
 馬車の御者と護衛は協議の上、翠珠山脈を超えるときだけは、馬車の鎧戸を開けてくれていた。中の僕が本当に参っては可哀想だという、ひどく人道的な理由に基づいて。――しかしながら外を見られる状況になかったのも、嘘ではない。彼らの優しさを無下にするのは申し訳ないと思いながらも、僕は本当に馬車の中で臥せているしかできなかった。
 その仔細を説明せずとも、アマリエは言葉の裏にあるものを感じ取ったようだった。祖父であるラリューシャと同じ赤銅の目を伏せ、唇を舐めて、言葉を探す様相を見せる。
「翠珠山脈の道が険しいのは、本当なんですね」
 思索の末にまろび出た言葉に対し、僕はひとつうなずいた。けれども折り曲げた膝を伸ばすことはしない。
 おそらく彼女は、アルシリアと二都をつなぐ道の険しさに興味があるわけではない。この娘は聡くはあるものの、幼子のようになにもかもを尋ねることをしないから。
 目線を絡めて傾聴の意を示せば、彼女ははにかむように微笑った。
「……わたしの両親は王都のほうで商売をやっていたんです。ふたりが亡くなった後、お祖父さまに引き取られてトゥーリーズに来たんですよ」
 うん、と再度うなずく。
「だからわたし、あの道のことも実はよく知らなくて」
 王都からトゥーリーズへの道程は、なにもアルシリアを経由するものだけではない。遠回りであることに目を瞑れば、山脈を南北に回り込んで訪れることも可能である。しかしながらアマリエが言いたいことは、そういう話ではないだろう。
 黙して続きを待つ僕の眼の前で、彼女はまた舌先で唇を舐めた。
「それで、あの。これはですね、本当は内緒の話なんですけれども……」
 少女の言葉はささやく細さだった。手招きに合わせて顔を傾け、耳を寄せると、彼女は口許に当てた手を通してそっと声を吹き込んで来る。
「お祖父さまの頼みで、わたしを連れて来たひとが、山道では背負ってくれたんです」
 にわかに僕は瞠目した。うなずくことは、できなかった。
 馬車が行き交うことすらできない細い山道は、ヒトにも獣にも優しい道ではない。子どもとはいえ他人を背負って進むなど、無謀どころの騒ぎではないだろう。
 それを成そうと思うのに必要なのは、覚悟よりもむしろ自分自身へのたしかな自信であるはず。しかもそれを完遂したというのなら、みずからの能力を顧みた上で可不可を判ずる頭脳の持ち主でもあったはずだ。
 一体誰がそんなことをと尋ねる前に、アマリエはするりと僕の手を離した。
「クロイツですよ。誰かに言ったら引っ叩いてやるって言われたから、ルカさまも内緒にしてくださいね」
 小さな背中は、振り返ることなく廊下の向こうへ駆けて行く。
 膝を伸ばした僕は、一体どんな顔をしていただろう。
 笑みを残して先へ行った少女を追いつつ、そっと頬を撫でた。――笑っているような気もするし、強張ってしまっている気ようなもする。自覚はともかくとして、他人はこれをなんと称するのだろう。今すぐにアマリエを呼べば、的確な答えは容易に得られたはずだ。
 にも関わらず、僕はそれをしなかった。この顔は誰にも見せてはいけない――少なくとも今の僕は、そのように思ったから。