四:王の獣 i

 アマリエは僕から上着を預かると、廊下の向こうへ消えて行った。
 そうして自室の前にひとり残されたまま、過ぎ去ってしまった夜を想う。冷静になってみると、昨日から今日へ、すとんと飛ばされて来てしまったような気分がした。
 部屋のドアノブを開けて中に入れば、かすかに花のような香りがする。石鹸で洗って干されたシーツの匂いだ。こればかりは一朝一夕の作業でつけられる香りではない。
 それを胸の奥に吸い込んでようやく、自分が成し得たことに思いが至った。
 僕は、僕らは、ひとりの魔術師を死の淵から掬い上げたのだ。
 一連の騒ぎと移動によって、髪も身体もずいぶんと埃っぽい。けれどもこの早朝の刻限に湯を沸かして洗うのは手間がかかる。それを成し遂げる気力はとんと湧いて来なかった。誰かを呼んで手伝ってもらうのも気が引ける。
 寝具を整えてくれたアマリエには申し訳ないが、今日は寝てしまうほうがいいだろう。
 幸いにしてエクリールは、僕に休むようにと命じてくれている。都合のよいところだけを継ぎ接ぎするようで心苦しいが、身繕いは後に回そうと腹を括った。
 しかし、流石に外出着で眠るのは自分自身が寝苦しい。せめて着替えを、と開いたクローゼットの中、不意にこちらをうかがう目が一対。
 目が合った。
 ――このクローゼットは、宿舎の個室に備え付けのものである。ゆえにその作りは、僕ならばけっして選ばない作りをしている。わかりやすく言うのであれば、扉の内側に鏡が付いているのだ。
 目が合ったと感じた理由は単純に、僕自身の目がそこに映っていたせい。
 正直に告白すると、僕は鏡が好きではなかった。鏡の中に映り込む、自分自身の顔が嫌いだった。だからこそ普段であれば、身支度のときでも鏡を覗くことは絶対にしない。覗かなくても済むように、訓練した。
 結果として僕は鏡がなくとも、いつもの姿でいられるようになった。
 いつもの、というのはつまるところ、僕自身のきょうだいの姿にほかならない。
 母譲りの花緑青の目。父譲りの枯野色の髪。左の頬には、あるかなしかの薄い傷跡。
 これが、わたし。高貴なる姿の竜と盟約を交わした王の裔、名をルカ・アデル・セン・クレイゼラッド。
 わたしは少しだけ目を細めて、先ほどと同じ表情を象ろうとする。
 けれども元の表情を詳しく知らない以上、それは最初から無理な相談だった。それでもしばらく鏡を覗いていたが、根負けの末に目線を外す。
 元の目的であった寝間着を取り出し、僕はそっとクローゼットの扉を閉めた。
 着替えて寝台に横たわると、手足は鉛のようだった。乗馬は楽なようで意外に疲れる。
 そうして疲れたときに限って、考えなくてもよいものを考えてしまうのが僕の悪い癖である。そこに疲労の深さを自覚しながらも、それをやめることができない。諦めるにはまだ少し眠気が薄い。というより昨日のことが頭を巡って、眠気の入る余地を奪っている。
「おかあさま」
 あの騒ぎの渦中にいなかったひとの呼び名をささやけば、声音は端から白く凝った。
 ――最後にこの言葉を口にしたのは、一体いつのことだったか。少なくとも、思い出せるほど近い昔ではない。
 なにせ、母は僕を嫌っていた。それから僕を生徒として養育する先生のことも。だから僕は母を避け、母もまた僕を遠ざけていた。そこにどんな理由があったかを、僕は知らない。
 それでも遠くから見る母が常に凛と前を――この国のあるべき姿だけをまっすぐに見つめて、父のかたわらに控えていたのは覚えている。この国に美しい絵図を描こうとしていたあのひとは、いつから正しくないものから目を背けてしまったのだろう。
 そう考えて思い出すのは、先ほど昔話をしていた魔術師のことだ。彼は笑って身の上話をしていたけれど、僕はあんなふうに昔のことを語れない。母と分たれ、先生と呼び慕うひとに育てられた僕らは、本当によく似ているはずなのに。
 ――すべてを捨てて宮を出て来たことまで、なにもかもが、本当によく。
 僕は昔のことを思い出そうとすると、いつでも泣きたいような気持ちがする。それは自分が捨てたものを惜しむための涙だったのだと、今の僕には分かるような気がした。
 でも、と内心でつぶやいてみる。
 本当に惜しむのならば、泣いているばかりではどうしようもない。
 取り戻そうと思うならなおさらに。報いようと思うなら、より一層に。
 寝間着の上から下腹を撫で、僕は母のことを考える。――僕はかつて間違いなく、彼女のことが好きだった。彼女が描こうとしていた美しい絵図を、見てみたいと思っていた。
 だから母が僕に願うことなら、なんだって叶えて来たのだ。弟を王太子に。王太子を争うことなく玉座に。その下準備として母がわたしに声をかけたときには、幼子のように喜んで応じた。与えられた花緑青の雫の不自然な甘さも、すべて余さず覚えている。
 そうして舌上に乗せた空想の毒は、間違いなく僕の喉をえずかせた。嘔吐感と似た感覚に釣られて、眦には涙が滲む。色のない雫を指で掬ってみれば、後はなぜだか無性に笑えた。
「なにが――」
 あのひとはいつだって、自分の正しさを信じていた。だから彼女は正しいものの具現として、みずから手を汚そうとはしなかった。かわりに法規を整え、信賞必罰を是とすることによって、みずからの意に沿うように国を動かすことに注力した。
 そうやってすべてが恙なく回ることを眺めるだけなら、たしかに国は正しく動いているように見えただろう。それを思うと、本当に笑えた。
 声を潜めようと思ってなお、笑い声は止め処なく唇からこぼれて止まらなかった。
 ひとしきり笑い終えた後に残るのは、ただただ重みを増した疲労ばかり。いつの間にか宿舎に湧いたひとの気配から隠れるように、頭から毛布を被る。――次に目を開いたのは、扉を叩く音を聞いたときのことだった。
 毛布を飛び出しても外は眩しくない。おかげで扉を開けるのに苦労はなかった。
「まだお休みでしたか?」
「ううん、今さっき起きたところ」
 扉の前に立っていたアマリエは、くすくすと笑った。その手には木のトレイがあり、ふたつ並んだ器には燕麦の粥が盛ってある。それを見たとたん、胃が動いた感覚があった。ついでに情けない音が勝手に空腹を訴えるものだから、僕は慌てて顔を覆う。
「もう夕方ですよ」
 転寝くらいに思っていたら、ずいぶんな時間が経っていたらしい。
 外から射し込む光は曙光ではなくて、翳りつつある黄昏の光だったのだ。道理で眩しさが少ないわけである。
「つまり二食も抜いたわけだ」
 腹が減って当たり前だ。アマリエは笑ったままトレイを差し出してくれる。数がふたつであることが、今はひたすらありがたかった。
 そうしてベッドの上に腰かけて食べた麦粥は、甘い。蜂蜜と香辛料で味をつけた、王都のあたりで作られる麦粥の味。これを作れるということは、アマリエが王都近郊の出身であるという話も、どうやら嘘や勘違いではないらしい。
 そしてその味を妙に懐かしく感じたのは、僕自身がトゥーリーズに慣れ切ってしまったせいだろうと思う。
 どこか空虚な食事を終えたころに、アマリエが井戸の水を汲んで来てくれた。それを暖炉で沸かして身体を拭うと、急にまともな人間になったような気がするから不思議だ。
 皺ひとつないフランネルのシャツを着込み、背筋を伸ばして部屋を後にする。
 アマリエ曰く、エクリールはすでに役所のほうへ引き上げているとのことだった。
「ルカさまがいなくなったのが判明してから、すぐに役所へ戻られましたよ。特に慌てたりもしないで、きちんとご自分の足で」
 聞けばクロイツが馬を盗んだせいで、昨日の宿舎は結構な騒ぎになったらしい。
 そこへ伝令の獣が飛び込んで来て、彼が僕を拐かして逃げたかもしれない、という話が伝わった。けれども調べてみれば僕の割符がないことも判明し、拐かされたのではなく唆されたのだという騒ぎに変わった。そこでようやくエクリールに事態が伝わったという。
 顛末を聞いた彼は、部下には追手を戻すよう指令を出し、側仕えの侍女には僕らを迎えるようにと命じて、役所のほうに引き返したのだそうだ。
「いちおう書き置きはしていったんだけどな」
「あれが見つかったのは、アマリエが敷布を交換のために、お部屋へ入らせていただいたときですよ」
 ――つまりは手遅れだったというわけだ。ごめんと小さく告げると、アマリエはすんと鼻を鳴らして見せた。晒布の入った桶を抱え直し、水場のほうへ消えて行く。
 残された僕は一旦外を経由して、役場へと足を踏み入れた。
 そうして階段を登って向かった廊下の先に、いつもどおりのましろの姿を見る。
「もう洗って乾いたんだ、それ」
「石鹸と暖炉に頑張らせればすぐだ」
 作りものめいた白面がつぃと歪んで、笑う。
「木工通りの下の雑貨屋にある石鹸はな、とにかくすげぇぞ。軍服は色が落ちるけどな」
 僕は肩をすくめて、なるべく近い表情を作って返した。
「白物に困ったら買ってみる」
 エクリールの居室の戸を叩くのは、僕の役目だった。
 ほんの瞬きほどの間を空けて、お入り、と掠れた声がする。
 声に従って入った室内には、吊られた角燈から白い明かりが落ちていた。わずかに青みを帯びた光の下で、エクリールは角燈そのものを見上げている。
 その鮮やかな青のまなこが、するすると落ちて僕らのほうを見た。
「お座り」
 告げる声音は低く、煙の匂いはごく薄い。みやびやかな細工の煙管は、文机の上に置き去りになっている。――いつもエクリールが吸っている香薬は、そもそもの来歴がヒトと獣に幻覚を見せるための薬だ。彼はそれを以て病のない身体の夢を見続けるが、けっして褒められた類の薬ではない。
 思考を鈍らせるこの薬を名指しして、麻薬と呼ぶ領地も皆無ではないと記憶している。
 その事実を噛み締めながら、僕はエクリールの向かいの椅子に座した。クロイツは僕の後ろからやって来て、同じだけの距離を開けたまま、椅子には座らず足を止めた。
「まずは君たちが無事に帰って来てくれてなによりだ」
 僕ははいと答えたが、魔術師は口を開かない。かすかに衣擦れの音がして、彼が腕を組んだことだけがわかる。
 エクリールは隻眼を細めて、まっすぐに僕を見た。
「して、なにか僕に聞きたいことはあるかな」
 骨と皮ばかりの指先が、血色の悪い唇を撫でる。それがいつもの煙管を求める所作であることを、僕はよくよく知っていた。
 だからこそ、質問は可能な限り手短にせねばならない。
「イラテア商会とはいつから?」
「正確性を求めるなら、僕が生まれる前から。家ぐるみでこういう商売をしていると、いつまでも避けて通れる相手でもないし」
 因果なものだと呟いて、彼は隻眼を伏せた。
「とはいえ君が聞きたいのは、こういうことではないんだろうな」
 角燈の中で炎が爆ぜる音がした。エクリールが目線を上げる。
 ――先生がかつてあかがねにたとえた炎の色は、エクリールの虹彩の色でもある。ただただひたすらに澄んだその青は、見つめ続ければ瞳に焼き付くようだった。
「この件については事故の少し前からだよ」
 清閑でありながら苛烈。烈々としてなお冴え冴えしい、燃える炎の青の色。
「もし国と事を構えるつもりがあるのなら、なにかと入り用だろうという話でね」
 後ろ頭に鼻で笑う音が当たった。当てて来たのが誰であるかについては、振り返ってたしかめるまでもない。クロイツだ。
 ひそかに商会と通じていた彼にとって、己の主人まで商会と通じていたという事実は、まさに寝耳に水だろう。
 元々知っていた可能性もあるが、それを判じるには材料が少ない。
「国と事を構える、というのは」
「端的に言うなら王妃を政の場から追い出す、と言うことさ。……もっとも端から実行する気はなかったし、交渉は決裂したけどね」
 エクリールは煙管を銜えた。ついに、と言うには短い我慢だった。
 ましろの煙が空を泳ぎ、背後からはささやきより幽き声がする。わずかに僕の髪を揺らした風が、香薬の煙を千々に払った。
「なにせ、錦の御旗が……その後に続くものが、なにもないから」
 今なお王妃を信奉する貴族は少なくない。その最たるは弟だ。次に、母の配剤で位と土地を得た者たち。彼らの姿を思い浮かべて、僕は膝上で拳を握る。
 母を追い出すということはつまり、彼らと相対することでもあるのだ。彼らを平らげて母を排したならば、次は彼らを納得させられる王が必要になる。
 獣と賢者の威光を一身に承け、王妃の影を払うただひとりの王が。
 ――それを思えば、言いたいことは山とあった。けれども、どれも言葉として出すことができない。
「後に続くものがあれば、やるのか」
 僕の言葉を遮ることなく問うたのは、クロイツだった。
 常々の涼やかな声音は、冷えた鋼に触れたよう。あるいは冬の夜の厳かな寒気。一切の矛盾を孕むことのない冬の声音は、ここに至ってなお、僕が振り返ることを許さなかった。
「無論だとも」
 声色の強さを恐れることなく、エクリールは隻眼を上向けた。微笑む青の瞳は、まっすぐにクロイツを見ている。
 魔術師は、そうかとだけ応じた。
 その黒い双眸が見るものを追う勇気を、僕は持ち合わせていなかった。
「質問はそれだけかい」
 笑みの気配を忍ばせた声に、ひとつうなずく気配がした。エクリールもまた首肯の仕草を見せ、椅子の背もたれへ深々と体を預けた。
 彼の思索を示すように、白色が室内を染め上げていく。
「では、僕のほうからもいくつか聞いていいかな」
「もちろんです」
 磨かれた飴色の家具も、窓際の花台も、すべてが柔らかな白さに落ちていく。
 その中でエクリールの紙のような面を見出すことができるのは、魔術の加護があるからにほかならない。加護を授けてくれる当の魔術師はといえば、おそらく腕を組んだままの姿勢で、僕の背後に佇んでいる。
「もしも僕が新しい王を擁立するなら、足りないものがある。それがなにか、わかるかい」
 僕はわずかに目線を落しとた。示すべきものはふたつのうち、たったひとつだ。しかしながら、それは複数の言葉によって呼称される。だからこそ、僕はその呼び名にのみ迷った。
 あれはヒトと竜が成した盟約の証、もっとも尊い契約の担い手、竜の名代の片割れ、玉座の護り手。あるいは――
「本気でわかんねぇと思ってんなら、幻覚剤やめて出直すんだな。そりゃあ 〈白夜の討ち手にして極夜の守護、黎明にありては弓を引き、桑楡にありては帳を引く者〉――つまるところ〈宵守の君〉の次だろ」
 触れることさえ厭われる、厳冬の声。それが滔々と告げたのは、僕らの父に仕えた獣の真の名前だった。その響きを聞き入れるに至り、エクリールはうそりと瞼を閉じる。
「王の獣は王ひとりにつき一頭だ。逆もまた然り。だからもしも僕が誰かを王位に就かせるのなら、まずはそれを探さなくてはね」
 王位を継げる誰かではなく、王の獣を求めるならば、彼の目標はただひとつだ。
 ――この国の玉座は、常にふたりの竜の名代によって支えられる。片方は相談役として在り、ときに竜の意を請うて伝えてくれる魔術師。もう片方は王を守護し、契約を以てその治世を見届ける獣。前者は生きていれば先生がなってくれるだろうが、わたしは後者を持たない。
 だからもしも玉座を前にしたとしても、僕はそこに座ることができない。
 けれども逆を正せば、獣がいればわたしは玉座に座すことができる。つまりは王位を得ることができるのだ。ゆえに王位を求めるならばそれを得よと、エクリールは言っている。
「あと、そうだ。リセリ師はどうした?」
 ふたつめの問いに、肩が跳ねた。まさか彼の名前が出るとは思わなかった、などと言えば嘘になるが、そんなものは驚かない理由にはならない。
 エクリールはそんな僕を見て、さも愉しげに口の端を吊り上げた。
「……イラテアから来訪のわけは聞いていない?」
「娯楽、とだけ」
「そうか。まぁ、実際にはそんなに難しいことではないよ」
 低い笑いは白煙を伴わない。
 ゆえにエクリールは二の句を継ぐより前に、煙管の中身を入れ替えた。
「どこぞで法を超えてひとを処罰するような件があれば教えてくれ、というくらいで」
 君に見せるから。そう続いたかもしれない言葉のかわりに、室内を満たす白さが密度を増したようだった。
「して、先の問いへの返答はどうだい」
「蜘蛛の巣谷へ連れて行く、と」
 イラテアが教えてくれたのはそれだけだ。エクリールはひとつ首を縦に振り、煙管の中身を捨てる。骨と皮ばかりが浮いた指に震えはない。
「魔術師と学士の総本山か。木の葉を隠すなら、というやつだな」
 あげく蜘蛛の巣谷――オルトヴィロウ大学府は、王妃の故郷である。万が一彼女が兵を差し向けたところで、方々から批難を浴びることは目に見えている。
 僕らの母がそれを成し遂げられるとは思えない。
「あの婆さんもまだ頭は回るな。トゥーラから引き渡しの依頼が来たら、こちらは知らぬ存ぜぬで通すとしよう」
 エクリールも考えることは同じと見えて、それ以上はあの魔術師の処遇について言及しなかった。
 かわりに彼は机上に肘をついて指先を組み、そこに顎を乗せることで頭を支える。先生がよくやって見せた、ひとの顔を覗くための所作だ。
「だいぶ寄り道をしてしまったが、そろそろ本題に入ってもいいかい」
 僕は糸で引かれたように背中を伸ばす。こちらもまた先生に相対していたときの、僕の癖のようなものだ。目前に据わった先生の友人もそれを憶えていると見えて、にわかに破顔する――と見せかけて、目が笑っていなかった。唇にかすかな笑みの気配を帯びているだけ。
 おかげで僕は、彼の瞳から目を離せない。目線を断ち切ることが妙に恐ろしかった。
「では、端的に言うよ」
 けっして大きくはない声が紡ぐ言葉は、一字一句、違うことなく僕の胸に落ちていく。
「本日この時刻を以て、君の目付役の任を解く」
 珍しくよく通る声で言い切ってから、エクリールはようやく瞳に笑みの色を浮かべた。
「補足しておくと、君が悪いわけではなくてね。……なんと言うかやはり、僕がクロイツから目を離すとろくな結果にならないと学んだ」
 クロイツはなにも言わなかった。
 いっぽうの僕は、ようやくエクリールの隻眼から目線を外すことができた。喘ぐように息を吸い込んだところで、それまで呼吸を忘れていた事実に気づく。
 ふたたび煙管を銜えたエクリールは、火皿をふらふらと上下に揺らして見せた。
「正直なところ、元より目付役としては期待してなかったんだけどね」
「それについては重々自覚があります……ありました」
 ハイロも、アマリエも、僕自身も、目付役など建前だろうと考えた。つまりそれは目付役という名の足枷であったわけだが、クロイツはそれを一切苦にしなかった。むしろ足枷がついているからと、平気な顔で余計なことをさせた気さえする。
 申し訳ないやら恥ずかしいやらで、僕は深々と頭を下げ――られなかった。下げようとしたところで襟首を掴まれ、無理矢理姿勢を正される。
 下手人については、たしかめるまでもない。
「おまえは俺相手によくやったほうだ。だから気にしなくていい。どうせこいつだって、完璧に俺を御せるわけじゃねぇ」
「君、いちおうはエクリールの雇われだろうに」
 振り返った僕の顔を見下ろして、クロイツはすんと鼻を鳴らした。
「俺は金に困って雇われてやってるだけだ。……アマリエとは違ってな」
 ましろの面には薄青の影が射している。仰ぐばかりの僕から見れば、歪みも変化も均一に影に飲まれて、表情のほどまではわからない。彼の内心を推察するための材料は、薄い唇からこぼれる声を拾うことでしか得られなかった。
「だから俺は、気に食わなきゃいつだってここを辞めてやるし」
 しかしながら今日の魔術師の声は、僕が聞いたことのない類の声であり――
「次に行く先も、自分で選ぶ」
 夜明け前の空気にも似た、ひどく透き通った声色だった。
 ゆえに、僕は彼の意図を判じかねる。けれども恐らく、僕の推測などクロイツにとってなにひとつ必要がないことなのだ。
 ――だというのに、続く声音は緩々といつもの調子を帯びて行く。
「おまえを振り回して遊ぶのは、なかなか楽しかったけどな」
 別れはいつだって唐突だ。言葉のただひとつで、ふつりと切れることもある。
 それはちょうど僕とわたしが別れたときに似ている。離別の後、これからも続いて行くものがあるという点においては、特に。