四:王の獣 vii

 夜半、であるのだと思う。僕が、硬い床の上で目を醒ますに至ったのは。
 目を開けてみれば、あたりはうっすらと明るい。眠っていたから目が慣れているのだろうかと思ったが、二重硝子の採光窓には雪片がついていた。それに当たった月明かりが、室内にほのかな光を落としているのだ。
 そこまでをしっかり見届けてはじめて、寒いと思った。
 しっかりと毛布に包まったまま身体を起こし、時間をかけて目を閉じる。耳を澄ませても物音はしない。雪の夜に特有の静けさは、呼吸の音さえ飲み込みそうな具合だった。
「……ルカさま?」
 疑念に眉根を寄せたころ、寝台の上で身じろぐ気配がひとつ。アマリエだ。
 僕は毛布を出て立ち上がり、彼女のすぐそばまで忍び足で歩いて行く。小さな体に触れてみれば、彼女は不思議そうに僕を見上げた。
「静かに」
 耳許へ語りかけると、アマリエは体を固くする。けれどもなぜ、とは言わない。その姿勢にうなずいてみせてから、僕はふたたび耳を澄ませた。
 ――僕はなぜこんな夜半に目覚めたのか。それはおそらく物音のせいだったように思う。
 思う以上の確証が持てないのは、続く音がないせいだ。あれはけっして秘めやかな音ではなかったはずなのに。
「歩哨」
 息がかかるほど近くで、少女がささやく声がした。
「歩哨がいないんです。だから、こんなにしずかで……」
 言葉のかわりに首をかしげてみせると、彼女は吐息とともに力を抜いた。そうして手を伸ばして僕の耳に宛てがい、一層に小さな声を吹き込んで来る。
「夜はいつもいます。雪の日は寒いからずっと動いていて、その音がするはずなのに」
 薄明かりの中、僕は強く唇を噛んだ。常日頃の寝付きのよさが恨めしかった。
 領主邸はとうに焼け落ちてしまったが、この敷地には役所もある。そこで管理されているもののことを思えば、敷地にまったく見張りがいないなど、有り得るはずがない。
「アマリエ、」
 また動きを止めた娘の頭を撫で、彼女の額に自分の額を押し当てる。
 子ども特有の高い体温がじわりと染みた。それに促されるようにして、言葉をつなぐ。
「なにも言わずに、僕の言うことを聞いてくれる?」
 首肯は、額に対する圧力として伝わって来る。それに対する安堵の息を零してから、僕は膝立ちになっていた寝台の上から降りた。
 次に音を立てぬよう細心の注意を払って、クローゼットを引き開ける。
「これを着て」
 僕は着道楽でも衣装持ちでもないけれど、幸い外套はふたつ持っている。そのうち色の淡いほうを差し出すと、アマリエはおとなしく腕を通した。彼女が袖を折るまでを見届けてから、ベッドの前で膝を折る。
 ついで深呼吸をひとつ。
 意を決して寝台の下に手を差し込めば、冷ややかな感触がそれに応えた。掴んで引き出すと同時、ベッドの上に座るアマリエが、鋭く息を呑んだ音がする。
「……僕の頭が吹き飛んだらどうするつもりだったんだ」
 一気に引っ張り出したのは、装填に使う槊杖と玩具のような飾り小箱。見た目の割に重い蓋を開けば、中には紙包みの薬莢が入っていた。
 こんなものの隣で寝ていたのかと思うと空恐ろしいが、今は不思議と怒りが湧かない。
 ――そうして最後に取り出したのは、燧石式歩兵銃。黒い外套を羽織ってから、その銃身に火薬と弾を込める。アマリエは口許を両手で抑え、じっと装填の動きを見つめていた。
「そんなもの、どうして」
 ようやく放たれた声には、苦笑いを以て答えるよりほかにない。
「僕のものじゃないんだけどさ」
 言葉は密やかに、できる限りは戯けて。
 もっともわざわざ努めて口調を取り繕わずとも、僕の声は暗くはならない。
 なにせ僕は、こいつを置いていった人間に心当たりがある。具体的には、ベッドの下に物を隠すような男――かつてのこの部屋の持ち主に。
「もう一度だけ聞くけど、普段は外に歩哨がいるんだよね」
「います」
 アマリエはしっかりとした調子でうなずいた。けれども今、外に歩哨の気配はない。
 その事実を胸に留めて、僕は大きくひとつ呼吸をした。
 思い出すのはトゥーラの猟兵、ストーのことだ。彼が同僚である見張りを無力化したやり口を追想し、深呼吸をもうひとつ。
「……今から僕はそのひとの様子を見に行く」
 次に僕は、自身の眠りを妨げた音についてを想う。音の主は、僕が硬い床の上で眠っていることを知っていただろうか。
 そこまで考えると少しだけ笑えた。誰であろうと、王都から馬車でやって来た貴族の子息が、床上で浅い眠りを貪っているとは夢にも思わなかったことだろう。
 いっぽうでアマリエは僕の顔を見上げて、ベッドを降りて来た。ついておいで、と口にすることはしないでおく。片手に銃を掴んだまま、僕は彼女の手を引いた。
 足音を殺して扉に近づく。木の板に耳を当てて外をうかがうのは、いつか魔術師がやっていたのを真似た所作。僕には彼ほどの聴覚はないが、目を閉じて耳をそばだてれば、木製の扉は意外によく音を通してくれる。
 聞こえる音で一番大きいのは、まず僕自身の鼓動。それから緊張で逸る音に紛れて、かすかに床が軋む音。
 三度目の深呼吸ののちに、僕はアマリエの手を放した。銃の撃鉄を起こす動きは久しぶりだが、これに手間取ることはない。
「みっつ数えたら、扉を開けて。……僕が呼ぶまでここにいるんだよ」
 アマリエがうなずくまで待ってから、さん、と口を動かす。に、いち――僕の後ろから伸ばされた小さな手がノブを回す。そこから一拍の間を開け、靴裏で扉を蹴りつけた。
 開いた扉が壁を叩き、思った以上に大きな音がする。
 その向こうには、ただただ驚いた顔があった。窓から入る雪明かりに、片眼鏡のレンズが光っている。
「そこを退いてくれるかな、アルトゥール」
 吐き捨てた声は自分でも驚くほどに低い。変なところで度胸がついてしまったなと、冷淡に嘲笑う自分がいた。
「撃てますか」
「撃てないと思ってるなら、その勘違いはすぐ正せるよ。やる?」
 銃口の向こうで平素を取り繕い、片眼鏡の書記官は鼻で笑った。照門越しにその顔を見ながら、僕は一歩前へ出た。
 背後から続く足音がないことに安堵しながら、さらに一歩。対するアルトゥールはレンズの向こうの目を細め、片手に提げていた銃を上げる。僕が構えたマスケットよりも、よほど取り回しがよい小銃だ。
 僕は短く息を吐き、銃爪にかけてあった指を引く。耳元で鳴る銃声はひどく大きい。反動で身体が跳ねて、僕のものではない悲鳴が谺した。
「アマリエ、おいで!」
 予想していた流血はなかった。火薬が悪いのか、銃が悪いのかは知らないが、銃弾はアルトゥールの軍服を貫くことができなかった。
 でも、これは一種の幸いだ。ひとが死ぬというその瞬間を、アマリエに見せることがないままで済む。その事実に安堵しながら、扉からまろび出て来た少女の手を掴んだ。倒れ伏したままもがく男の隣を抜け、暗い廊下を駆け抜ける。
 ――僕らがこの街を出た日、外には歩哨など立っていなかった。
 それを思えば一等に疑って然るべきは、アルトゥールにほかならない。談話室で交わされた僕らの言葉を聞いていれば、理由をつけて歩哨を外すことは容易だっただろう。
「逃げた、逃げたぞ!」
 血を吐くような、怨嗟にも似た声が背中を叩く。
 振り返ろうとするアマリエの名を呼んで制し、角をひとつ曲がった。
 そこでようやく、装填のことに頭が回る。ポケットに捩じ込んで来た紙製薬莢は、引き出す勢いでひとつが遠くへ転げて行った。どこまで行ったかは見えなかった。
 がちがちと勝手に鳴る歯で、硝化された包み紙を食いちぎる。焦って口の奥に入れ過ぎたせいか、舌先には潤滑用の固形油脂と薬剤が混ざった、塩漬けの脂身に似た味が染みた。
「ルカさま、あれ」
 窓の外をうかがっていたアマリエが、そっと僕の袖を引く。応じて首を巡らせれば、硝子の向こうには鮮やかな朱が見えた。
 僕の部屋があるのは宿舎の二階だ。その高さから見下ろしたその色彩は、雪上に刷毛で絵の具をなすったようにも見える。
 すっかり青ざめたアマリエの頭を撫で、僕は銃を担ぎ上げた。
「お祖父さまのところへ行こう。……ハイロがいるから、きっとだいじょうぶだ」
 雪明かりよりほかに頼るもののない薄暗闇は、虎たちの青黒の髪を彷彿とさせる。その色彩にもっとも親しい獣の姿を想って、僕はアマリエの手を引いた。今は鍛冶屋の見習いではあるけれど、彼はけっして弱くないだろう。どうしてもと言うのであれば、契約を以て外敵を退けることもできるはず。
 けれどもアマリエは、もう走ることなどできなかった。つないだ手はひどく震えて、歩けるだけでも恵まれたことだと僕は思う。とかく長く時間をかけながら、僕とアマリエは階段へと辿り着く。
 階下からは怒鳴り声を含めた相争う音が聞こえて来たが、それはすぐに静かになった。銃を構えて下を覗くと、後ろ足を引きずりながら登って来る虎がいる。
「待て、待て、撃つな。……というかまず、こっちに銃口を向けないでくれ」
 牙の並んだ口から漏れる声は、夕食のあとの食堂で聞いたものと相違ない。
「あなたは……」
「俺はあんたの味方……というかハーウェン大佐の味方だよ。あんたがアマリエを連れて逃げるつもりなら、その手助けをしたい」
 獣たちは嘘をつけない。それでも僕はさんざん迷った末に、銃口を下げた。
 黒にしか見えない尾を揺らしつつ、虎は残りの段差を登り切った。長い吐息とともに廊下に腰を下ろして、じっとアマリエのほうを見る。
「この娘は俺が乗せて逃げられりゃよかったんだが」
 漏れる笑いは唸りのよう。尾の先で床を叩いて、深い青の目が階下を振り返った。
「なにせ急が過ぎた。……同じ宿舎に寝泊まりしてるやつらに、街の外と通じた連中がいたとは恐れ入ったよ」
 今日まで宿舎にいた者は僕とアマリエ以外、全員があのエクリールの正式な部下だ。よく鍛えられた彼らにとって、ただの一撃で歩哨を下すことなど、造作もなかったに違いない。
 あげく相手が昼間までの味方とあれば、討たれた側も完全に気を抜いていただろう。
 せめて、そこに痛みがなければよかった。――僕は一瞬だけ目を伏せてから、獣の瞳を覗き込んだ。
「あなたの言うとおり、わたしはこの子を連れて外に出ます」
 うん、と獣はうなずく。うなずいて、身を伏せる。
「夢見る言の葉喰らいの竜の御身にかわって、善き語り部の王の裔、ルカが貴殿を祝福しましょう。どうかご武運を」
 その口許から白い牙が垣間見えて、どうやら微笑ったらしいと悟る。
 音もなく立ち上がった獣とわたしの姿を見比べてながら、アマリエは不思議そうに瞬きを繰り返した。そんな彼女の手を引いて、獣と並んで階段を降りる。
「ルカさま」
 掴んだ手に震えはない。
「ルカさまは……」
 ただ声音だけが、今なお迷うように揺れている。
「ごめんね、アマリエ。わたしがきちんと、先に話をするべきだった」
 後悔をしていないと言えば、嘘だ。けれども後悔ごときで足を止めるわけにも行かない。
 そう思った矢先に、階下で乱暴に扉が開く音がした。
 にわかに滑るような足取りで以て、虎がわたしたちの前へと出る。彼の姿はすぐに階下の暗がりに溶け落ち、階段の木板を伝って咆哮と叫びが登って来た。
 それが絶えるまでの時間は長かったような気もするし、短かったような気もする。
「いいよ、行って!」
 終わりの合図を叫んだのは、あの若い獣の声ではなかった。アマリエの口から安堵に近い声が漏れたのを聞き取り、わたしは強く彼女の手を引く。
 本当は抱き上げてやれればよかったけれど、あいにくそこまでの腕力はない。所詮は女の細腕の範疇だ。かといって、わたしの弟もまたアマリエを抱くことはできなかったはず。姉に甘えてばかりだったあの子は、いくつになっても弱かったから。
 ――なかば無理矢理に階段を下り切れば、一階は錚々たる有様だった。ひとの身体が文字どおり落ちていたし、壁には顔料をなすったよりもひどい跡がある。行って、と言ったひとの姿は血溜まりのかたわらにあった。
 彼は横たわる獣の隣で膝を折り、祈るように瞼を閉じている。その横顔には、一直線の眉尻の傷が目立っていた。
 その姿を認めたアマリエは、なにか言いたげにわたしの手を引く。
 けれども無言の拒否を示したのは相手のほうだ。わたしは素直にそれに従い、アマリエを連れて食堂へ向かう。
 食堂の先、厨房には勝手口が付いている。出られる先からは宿舎の裏手が近い。
 階段を使って壁を登り、適当なところで下ったら、後は市街を抜けてラリューシャの工房まで行けるだろう。幸いにして僕の頭にある路地裏の地図の中心は、あの鍛治工房だ。道に迷うことはありえない。ついでに運がよければ、壁上の見張りにも会えるはず。
 けれど。
 窓の開く音がした。縋るように窓枠を掴んだ片眼鏡の男が、あらんばかりの声で吼えている。
 わたしはそれは言葉でさえなく、断末魔にも似た叫びであるとだけ思った。
 もしもの仮定ではあるけれど、それに追随する事象さえ起きなければ、わたしは永久に彼の叫びの意味を理解することはなかっただろう。
 しかしながら哀しいことに、わたしの頭は冷静だ。眼前で起きたことと、鼓膜に残った余韻の意味とを、嫌でも容易に結びつけてくれる。
 ――雪をまとって夜が降る。月と雪雲を一手に抱く、帳の色。
 それをまとった獣が、呼びかけに応えてここにあった。ハイロ、とアルトゥールは吼えたのだ。
 飛び降りて来た先は、城壁の上に繋がる階段の中腹。目眩に揺らぐわたしの視界で、ひとつに結われた青黒の髪が、月明かりを撥ねてかすかに揺れた。
 その顔には煤のひとつもついていないし、喉鳴らしの音も聞こえない。
 暗闇に光る瞳を見つめたまま、わたしは銃口を持ち上げた。
「どいて」
 ハイロ。僕の友だち。
 昼食を作る方法も、馴染みの店も、裏路地を歩く近道も、全部彼が教えてくれた。
「どきなさい」
 ハイロ。――わたしはきっと、彼のことが好きだった。
 同じものを食べたし、同じ店を使ったし、近道の中心はいつだってあの工房だ。
 言葉とともに半歩下がって、撃鉄を上げる。銃爪に指をかけながら、これから撃つ弾がなにも傷つけないようにと祈る。
 ハイロが一歩前へ進んで、わたしもまた一歩を退いた。
 そこでアマリエに体が当たって、ようやく照門を覗く覚悟を決める。
「撃てるのか、ルカ。そんなに震えて」
 照門越しに見た友人は、ようやく笑った。笑って、肩をすくめる。
 わたしはなにも答えない。ただしっかりと奥歯を噛んで、銃床を体につける。かつて弟が教えてくれた、過たずに撃ちたいものを撃つための、ちょっとしたコツだ。
 ハイロはひとつ溜息を漏らして、領主邸の跡に顔を向けた。
「俺がやるよ。そういう約束だろ」
 目線だけでうかがえば、石の土台には数人分の軍服の影があった。ならばここでわたしがハイロを撃っても、最終的な結果は同じだ。それでも銃口を下げる気にはなれなかった。
「意外とちゃんと構えられるんだな。……知ってたのか、俺のこと」
 こちらを見る青黒のまなこは、困り果てたふうを隠そうともしない。
 わたしは冷えた空気を深々と肺に吸い込んでから、銃を握る手にたしかに力を込めた。
「イラテア――〈花伏の君〉に聞いたよ。獣は王を見分けられるって。だから」
 王の獣とは、王を守護するもの。
 実態はともかく、その身は近衛のひとりとして、軍籍にあるものとして取り扱われる。ゆえにハイロが本当に軍籍を求めるならば、なんのこともない、在りし日の僕と契約を交わせばよかったのだ。そうして僕が王になれば、彼は晴れて軍籍の獣となっていたはずである。
 もしも彼がなれと言うなら、僕は王になることを厭いはしなかったはず。
 ――だからわたしは昨日、彼と言葉を交わした時点で、こうなることを心のどこかで確信していた。それでもなお今のわたしが冷静だと言うのなら、それは諦念のせいにほかならない。そして、諦念に慣れているせい。
「そうか、なるほど」
 けれどもここに至って、ハイロは瞠目した。
「俺にはそんなもの見えてないって気づいたんだな」
 感心したふうの声音は、どこかひどく遠く聞こえた。外套の裾を掴んだアマリエの手に力が篭る。
 ――旧い獣が見えると宣ったもの。まだ年若いあの獣がわたしの前に平伏した理由。
 もしもそれが見えていないと言うのであれば、ハイロは。
「……そのあたりまで、おかあさまにきちんと話を聞いておくべきだったか」
 彼は、エクリールと同じだ。
 獣の血によって夢へ至ることのできなくなったヒト、ヒトの血によって零落した竜の裔。
 彼らはこの国においてけっして珍しい存在ではないが、契約の環から外れている。それゆえに彼らは、ヒトとも獣とも契約はできない。裏を返せば、彼らには必要がないから文字など見える必要がない。
 だからこそ、エクリールが割符の記名を頼ったように、ほかの情報によってわたしの正体を判別する必要がある。
「なぁ、ルカ。王妃様はよい御方だよ」
 笑みで塗り固めて吐き出される声は、子どものものによく似ている。ストーやアマリエよりもうんと幼い、いとけないばかりの嬰児の声に。
「俺みたいな混ざりものにも、王宮での席を用意してくれると言っていた」
 か細い声が紡ぐ言葉は、どこまで信じられるかわからない。
「それは、王の獣になれる席?」
 けれどもわたしは、ここに至ってなお彼の言葉を信じたいと願っている。
 軍人になりたかったという話。なれなかったという話。わたしになにかあれば許さないとクロイツに向けて告げた言葉。それらをひとつ残らず、どれもこれもを。
 だからこそわたしが口にしたのは、一等口にするべきではない言葉だった。
 思えば、エクリールの家のひとびとはこの国を愛しているけれど、彼らが王の獣になることはできない。ヒトと獣の混血はひとり残らず須らくそうだ。――この世にただひとつある例外を除けば。
「そうだよ」
 ハイロの顔は笑みを残したままだ。
 ちょうどクロイツに馬鹿なことを言われたときや、師であるラリューシャが無理を言ったときの顔。
「王都からの客人の命ひとつで、それが買えるんだ」
 もしも銃口を隔てた向こうにいないなら、わたしもきっと笑っていただろうと思う。安い買い物だ。わたしはそれを買ってやりたかったし、買ってやって喜ぶところを見たかった。
 ――でも、とわたしは考える。
 今は駄目だ。あいにくわたしは、アマリエをここへ連れて来てしまった。お飾りの王の獣を立てようとする企てを知ってい る者を、ここにいる人間が生かしておくはずがない。
 ――だから、とわたしは銃を下ろす。
 わたしはもうきっと、ハイロといっしょになって笑うことはない。
「……一発じゃ、どうにもならないね」
 子どものような手伝いをして、床の上に広げた食事を食べて、あの工房を起点に裏路地を馳せたりしない。
「諦める。それに、僕は君を撃ちたくない」
「ルカさま」
 顔を伏せれば、こちらを見上げる少女と目が合う。
「余計に怖い思いをさせたね。――ハイロ」
 ハイロもまたすっかり困った様相でアマリエを見ていた。
 名前を呼ぶと、彼は弾かれたように顔を上げる。助けを求めるようだと思ってしまったのは、きっと錯覚ではないはずだ。
「僕には家族らしい家族もいないんだけど、死ぬ前にいくつか言いたいことがあるんだ。少しだけ時間をちょうだい」
 眉尻を下げた面は、雲間を縫う月明かりに照らされて、はっきりと見ることが叶った。彼は青い瞳で上を見ている。正確には二階の窓から顔を出す、アルトゥールの姿を。
 ハイロの顔とは逆に、庭から見上げた書記官の顔は影になってよく見えない。ただわずかに頭の位置が上下し、ハイロはそれを了承と取ったようだった。わたしのほうに向き直った彼は、ひとつ深々とうなずいてみせる。
「ありがとう」
 おかげでわたしは、微笑とともに銃爪を引くことができる。銃声とともに抉られた雪が跳ねた。これで、銃はもうなんの役にも立たない。
「……ハイロは、ルカさまを殺すんですか」
「そうだと思う」
 空の銃を捨て、雪の上に膝をついてみると、アマリエのほうが目線が高かった。今にも泣き出しそうな顔を見上げて、ゆっくりと目を細める。
「わたしがお祖父さまのところに、ルカさまを連れて行ったから……ハイロに、会わせたりしたから」
「だいじょうぶ、それとこれは関係ない話だよ。アマリエはなんにも悪くない」
 袖口で目元を拭ってやると、娘もまたうんと幼い子どものように抱きついて来た。
 その背中に手を回して、用意していた言葉をささやく。
「ねえ、アマリエ。……ここから先、わたしが言うことを絶対に口にしたらだめだよ」
 アマリエが、肩に額を押し付けて来る。解かれた長髪を撫でてから、わたしはゆっくりと立ち上がった。
 ――獣は嘘をつかない。
 ――魔術師は嘘をつかない。
 けれども、ヒトは嘘をつく。それが王であろうと、聖人であろうと、王女であろうと。
「聞きなさい、かつて形而下に在りしもの、形而上の最果てへ去りし〈玄冬の君〉」
 もっともわたしは、誰に何を言いたいとも明確に口にしていない。
「人の世に在りてルカ、玉座に在りてクレイゼラッド、汝の許に在りて四番目のアデル――善き語り部の王の裔が命じます」
 これを嘘だと言うのなら、語りかけたい相手が違うだけ。
 驚いた顔をしてみせたって、そんなものは騙されるほうが悪いのだ。
「わたしの声を届けなさい」
 アルトゥールが怒鳴っている。領主邸の上に集ったひとびとがハイロを見る。
 ――当のハイロは喘ぐように口を開いた。僕と同じ嘘をつくエクリールがそうであるように、彼は嘘をつくことができるはず。
 だがしかし、彼は王の獣になりたいのだ。
 たとえその血に赦されていたとしても、獣たちができないことを成すには、心の壁があるのだろう。だから、わたしはそこにつけ込む。
「いずれこの身に王冠を戴く、王の娘が命じます」
 ひどいやり口だと自嘲はしても、口から溢れる言葉は止まらなかった。
 かつて先生から習った口上は、いつかわたしがクロイツの魔術を評したように、旋律を帯びた歌に似ている。
 これは音の高低で言葉をつなぎ、ただの一音に複雑な意味を持たせる魔術の技法だ。いつかのクロイツが風を呼んだものと大した相違はない。そして同時に、魔術師にはなれない王の血脈が与えられた、唯一にして最大の武器。
 形而上の最果てに去ったという竜だけが、これを言葉に解く方法を持っていると聞く。
 それが事実かどうかは知らないが。
「この名の許に番う者あらば、応えなさい!」
 わたしは魔術師であった先生を、信じている。
 それを追想して吐息を漏らしたことを、ハイロは言葉の終わりと見たようだった。なにかを断ち切るように頭を振り、一歩前へと進む。
 でも、それで彼の歩みは終わりだ。続く二歩目はない。
「応える」
 鈴を転がすような声がして、ハイロは顔を上向けた。それを追うように、わたしもまた銀の名を冠する断崖めいた壁を見上げる。
 ――目が合った。高い高い壁の上、たしかに、わたしと。
「応えるよ。なんだ、他人様のこと呼びつけといてその間抜け面」
 美しいばかりの黒い瞳が、影になってなお白いかんばせによく目立つ気がした。ましろの外套の裾が風を孕んで、壁上を踊るように泳いでいた。
「おまえ、前から思ってたけどさぁ、やっぱり馬鹿なんじゃねぇの」
 あれは獣を呼ぶための詩だが、わたしはあれを、この数日をともに過ごした魔術師へ助けを乞うために使ったはず。
 なのに、どうして。
「口を慎みなさい、クロイツ!」
 困惑から抜け出したのは、アマリエが一等早かった。今にも噛み掴んばかりの彼女の声にひとしきり笑ってみせてから、黒いまなこがハイロを見る。ついで、領主邸の跡地に集った一団を。
「その馬鹿ふたり、殺したいなら殺してもいいけど」
 最後に、宿舎の中に残ったアルトゥールを。
「殺したら最後、どこまで逃げても絶対に追い詰めて殺すからよろしくな」
「……どうしておまえがここに来られる、クロイツ!」
 ハイロが叫んだ。ああその件ねと気安く笑い、魔術師は首許に手を伸ばす。
「飛んで来た」
 ヒトと獣の混血でありながら、ハイロは猫のように大きく目を見開いた。
「おまえは魔術師だろう。エクリール卿の、雇われの……」
 その視線の先で、白魚の指が外套のフードを留めた紐を解く。
「なんて言うかさぁ、みんな馬鹿のひとつ覚えみたいにそう言うんだよな」
 続けざま、同じ指がフードの縁を摘んだ。
 精緻な刺繍に触れる所作は、普段よりほんの少しだけ柔らかに見える。いつもと同じ黒いまなこでわたしへ笑いかけ、黒髪の魔術師はひと息に布地を後ろへ払った。
 そうして月の明かりを撥ねた髪は、
「でも俺、一度だって自分のこと魔術師って言ってねぇんだぜ。思い込みって怖いよな」
 わたしが十七年の間に見たどんな雪よりも、白い。
 にわかにアマリエが悲鳴によく似た短い声を上げたが、わたしは驚かなかった。なぜなら彼はあの詩に、たしかに応えてみせたのだ。
「ま、ちょいと小細工ができる程度には、ほかの連中より化けるのが達者なんだがね」
 風に踊る外套の色は、黒。金糸の霜華が変わらずその裾を彩る。
 彼がここまでけっしてあの外套を脱がなかったのは、なんのこともない、髪の色をそちらへ映していたせいだろう。そしてそれとは真逆に、自身の髪には外套の黒を映していた。
「改めて名乗る必要もないとは思うが、念のために教えてやろう。俺はめちゃくちゃ親切だからね」
 彼が軽く足許を蹴ると、長細い影が空を舞った。
 積もった雪片が飛ぶのとは異なるその影は、わたしが昼間に運んだ荷物の長さとよく似ている。けれどもよくよく見れば、それはけっして影などではなかった。
「 〈宵守の君〉の子、クロイツだ。気軽にクロイツ兄さんと呼ぶことを許すぞ」
 鞘も柄も影の黒色だが、鍔だけは鮮やかな金の色。ましろの手でそれにほど近い位置を掴んで、クロイツは中空の剣を手に取った。
 生き甲斐と呼び、コウというひとの最後のひと振りだと言った、あの剣を。
「構うな、呼ばれて来ただけだ。契約も抜きになにができる!」
 アルトゥールが叫ぶ。
「王都についたおまえらが、ここに来て後戻りなどできると思うな!」
 クロイツは彼の姿を一瞥した。その視線を追いかけて、ああ、とわたしは考える。
 アマリエがハイロへ貸し出している本は、彼が選んでいるのだと言った。そして本を仲介するアマリエは、その内容を明確に理解できない。中の書き込みを改めないわたしも合わせて、彼にとっては理想の伝令役であったことだろう。
 今さら唇を噛むわたしの目の前で、クロイツはふたたび足許を蹴った。壁上から身を躍らせ、壁を蹴って遠くへ。
 元が鳥であることを差し引いても、冗談のような身軽さだった。あれでは鍛冶屋通りの石畳も、細工師通りの手摺も、願かけになどならなかっただろう。
 その体捌きを以て舞い落ちる姿は、白く尾を引く星に似ている。
 夜闇を裂いて翔け落ちる、ましろの流星。
「てめぇは後でぶん殴ってやるから覚えてろよ!」
 美しい容姿に似つかわしくない怒号は、いつものように。
 しかしながら降り立った後ろ姿は、もはや金の煌めきを連れていない。それはきっと、今は彼の瞳の裡にある。ただひたすらに、前だけを見るために。
 彼からわたしに言葉はなかった。だからわたしも、どうにかなるのか、などと問うことをしない。いつもの調子を取り戻した頭で、ここから先の暴力が少しでも穏やかにすむようにとだけ祈る。けれども、その祈りがけっして届かないことを、わたしはよく知っている。
 このたった数日で、そういうものだと理解してしまった。
 クロイツは白いばかりの手に、友の作だという黒い剣を握り締め、ひと息に領主邸の跡地へ登る。そうして第一の犠牲になったのは、わたしたちにもっとも近い位置にいた男だ。低い位置から弧を描いた剣の鞘が、軍服に包まれた胴を殴打する。彼が反射として身体を折り曲げた矢先、同じように弧を描いた剣の柄が後頭部へと吸い込まれた。
 次のひとりは帯びた軍刀を構えて飛び込んで来たが、クロイツはその一撃を鞘で防ぐ。その勢いを乗せて振り抜かれた一閃は、悪い冗談のように相手の身体を吹き飛ばした。横手の仲間を巻き込んで、軍服の姿が壇上より消え失せる。
 ――覗いた横顔は、実に愉しげだ。それは暴力に慣れた者に特有の、容赦のなさの表れ。
「どうした、かかって来ないのか」
 絶対的な力を振るう側の笑みであっても、彼の顔に浮かんでいれば、たちまち花祭りの乙女のものに似る。それはひたすら華やかであり、ただひとつの翳りも持たない。
 なにせ今日の彼がその手に掴んでいるのは、生き甲斐だとまで言ったあの剣だ。彼はあの剣のために未来の神官位を捨てたのだと、今ならわかる。
 ゆえにわたしは、この凶行を止めようとは思わなかった。
 かわりに思いを馳せたのは、かつて寝物語に聞いた英雄譚。あれはたしか雪を知らぬ異国の話で、身の丈を越す剣を携えた英雄王が、悪神を誅した話であったと記憶している。
 クロイツが携えている剣もまた、身の丈を越える長さだが、かの王が携えた剣とは趣が異なる。あれは勇猛さを示す記号ではなく、少女のような体躯を補う、彼だけのための剣だ。
 四人目は、おそらく決死の覚悟でクロイツの懐へと飛び込む――猟兵たちですら踏み込めなかったその場所は、長柄の得物を使う者には完全な死角と言えただろう。
 しかしながらクロイツに慌てたふうはない。黒い裾を翻し、矮躯は軽々と宙を舞う。一転した身体は地に落ちることなく、銃を構えたひとりの首に剣の鞘を絡めて、それを基点に鈍い不吉な音を立てた。
 流れるような一連の暴虐に対し、もっともまともな判断を下したのは、上階から敷地を俯瞰していたアルトゥールだ。窓枠の揺れる音に応じて顔を上げれば、身を投げ出すようにして銃を構えた姿がある。
 ここに至って幸いであったのは、彼の狙いがわたしたちではなかったことだろう。わたしはアマリエの身体を押し込むようにして、厨房の中へと退却する。
 いっぽうクロイツは動かなくなった男の身体を蹴りつけ、領主邸の跡から追い出した。さらには石段を登ろうとした相手の顔面を柄頭で打ち据え、骨の砕ける音を立てる。
 そこまでの狼藉をやり尽くしてから、振り返った金の瞳が上を仰いだ。
 月と星の輝きに似た光の色は、この血腥い場にあってなお、ひとの声を奪う優美さ。
 されども残念なことに、持ち主はそこに嘲りの色を織り交ぜる。彼が口の端を吊り上げたのは、銃声とほぼ同時のことだった。さらには、きんと高く響いた鋼の音とも同時である。
「お祖父さまの、お祖父さまの大切な剣をあんなことに!」
 白い獣はただ剣の柄に手を添えただけに見えた。けれども彼が成した成果については、アマリエの叫びが雄弁に物語っている。クロイツは、抜き打ちで銃弾を切って捨てたのだ。
 ラリューシャはアマリエを孫ではないと言ったが、この子はどうしようもなく、あのひとの孫でしかない。その事実がおかしくて、わたしも無意識に笑っていた。
 そんなアマリエは、わたしの腕の中でわなわな震えている。それも怯懦や恐怖からではなく、激昂から来る震えである。
 そんな彼女の怒りと震えが収まる前に、邸宅跡の戦場には完全な決着がついた。それはすなわち、離反者側の敗走――逃げ去る軍装の背を、クロイツは追おうとさえしなかった。涼しげな顔で見送るだけだ。
 そして、彼と同じく軍服の青を見送ったひとがいた。それまで棒立ちになっていた、ハイロである。
 彼の上背を持ってしても、石造りの土台に立ったクロイツのほうが目線が高い。ゆえにその青黒の瞳は、夜の色を失った白い顔を見上げる。
「おまえ、俺のことは知っていたのか」
 言葉は責めるふうではない。
「まぁね。気づいてすぐに言わなかったことについては、俺を恨んでくれるなよ」
 気安い様子で応じて、クロイツは領主邸の跡の上を進む。出会いの日、わたしと並んでエクリールの許へ向かったときと同じように、駆けるのではなく、歩いて。
 見下ろす側と見上げる側、獣とそうではないもの。わたしが見ていたはずの姿を真逆に転じて、両者はまっすぐに見つめ合う。
「それは別としてだな。俺はおまえのこと、割といい友達だと思ってたんだぜ」
「俺もだ。信じてもらえるかは微妙だけどな」
 互いに笑い合う姿だけが、いつぞやと欠片も変わらない。耳朶を打つ笑声はどちらもひどく愉しげだ。
「……なぁ、クロイツ。後生だ、譲ってくれないか」
 そうして最後に、変わらぬ調子でハイロが言う。
「駄目だな。非常に残念なことに、俺も王の獣になりたい」
 魔術師であったはずの獣は肩をすくめた。わたしはその言葉にどきりとする。
 獣は嘘をつかない。つけない。
 わたしの呼び声に応えると言ったクロイツは、わたしに王になれと言っていたのだ。
「死んだ親友との約束でね。だから、ここであいつに死なれるのは困る」
 俺が、おまえを王にしてやると。
「魔術師紛いの軟弱者がよく言う。王の獣は剣など取らない」
 ハイロはわずかな唸りを漏らした。続く声音は大きくはないが、咆哮などよりよほど腹の底へ響く。
「おまえはよく知っているだろう」
 対するクロイツは目を眇め、つまらなそうに鼻で笑った。
「まぁ、親父はよくそう言ってたね」
 ついで彼はなにかを手招く所作をする。それがわたしを呼ぶものだと気づいて、アマリエを置いて勝手戸を潜った。
 いつしか月はふたたび雲の向こうに隠れて、剥き出しになった肌には雪が当たった。
 そうして近づいて来たわたしに対し、クロイツは一瞥をくれることもない。自分が呼んだ以上、わたしが来るのは当然だと言わんばかりの態度だった。
「獣はその身ひとつで王を護るものだから、武器を取るのは軟弱なんだってな」
 かわりに彼が投げてよこしたのは、唯一の荷物――コウが打ったという剣である。慌てて両手で抱き留めた剣は、装飾すらない真鍮の鍔を中ほどに据えてあった。つまり全長の割に刃は短く、柄が長い。これならば、クロイツの腕であっても抜き打ちは容易だろう。
 もっとも、技術が追いつくならば、という条件はつくが。
「いいぜ、相手してやる。俺に勝ったらルカのほうは好きにしな。アマリエは見逃せ」
「……わかった」
 ハイロもまた、わたしを見ることはなかった。そうしてわずかに俯けた顔を上げたその姿は、もはやわたしの知らないものだ。
 ただしそれは、単純にわたしがハイロの本性を見たことがないからではない。
 彼の見た目が、如何なる獣とも異なるからだ。――四肢は獣。顔はヒト。尾はなく、結われていたはずの髪は解けてざわめく。
 また白く視界を遮り始めた六花を散らして、まがいものの獣が奔る。対する本物の獣は雪より白いヒトの姿だ。
 そもそも彼の本性は梟なのだから、殴り合いには向いていない。有利不利など考えるまでもなく、あの姿で向かえ撃つよりほかにないだろう。
 振り下ろされた拳を避け、クロイツは月色を落とした色の双眸を細める。
「おまえはよく頑張ってたと思うぜ、ハイロ」
 ささやく声音はひそやかに、けれどもたしかな憐憫を含む。雪の合間を縫うように下がる彼を追い、ハイロはひと跳びで距離を詰めた。
「おまえの真似は上手だった。ルカさえいなけりゃ、俺だって永久に気づかなかったさ」
「光栄だな」
 灰雪を散らして迫る拳に、クロイツは半身を退くことで対処する。そのまま彼は姿勢を低めて相手の懐へ飛び込もうとしたが、これに対してはハイロのほうが厭った。クロイツはそれでもなお食い下がるべく足許を蹴り、伸び上がるように靴裏を前へ叩きつける。
 続けて鈍い音が聞こえはしたが、これはハイロが蹴撃を腕で止めたせい。――獣は得てしてヒトより強いが、それには「見た目よりも」という枕詞がつく。
 上背があり、なおかつ混血のハイロが相手なら、華奢なクロイツは分が悪いのだ。
「というか俺、おまえに殴られたら普通に死ぬしな。おまえのほうがらしいよ」
「俺の母親もそんなことを言っていた」
 なかば獣、なかばヒトの姿のまま、ハイロは肩をすくめる。
「ちなみに魔術が鑢みたいなもんだってのも、お袋さんの受け売り?」
「そう。もっとも、それ以上は聞けなかったけどな」
 なるほどと応じたクロイツは、拳を握らない。かわりに繰り出されるのは二指を揃えた貫手の一撃。それを裏手で往なしたハイロの横顔に、素早く握られた逆手の拳が突き刺さる。
 しかしながらハイロは怯まない。呼気とともに薙ぎ払われた爪は、逆にクロイツのほうを退かせてみせた。風切り音に重なるように、おかあさま、と呼ぶハイロの声が脳裏を過る。
 おかあさま。あれはわたしが母を呼ぶ声に似ていた。
 その響きを思い出してみると、ひどい頭痛がした。
 言葉を交わすことなく組み合った二頭の獣が揺らいで見えたのは、なにも雪煙のせいではないだろう。ハイロは未だ父を呼ばない。それはひょっとすれば、彼が――
「ルカさま、アルトゥールがいません!」
 アマリエの叫びに、わたしは頭を振った。イラテアやユードヴィールならまだしも、クロイツはハイロの拳の一撃で死ぬのだ。
 上からの弾丸など、浴びればひと溜まりもあるはずがない。だから彼は確実を期して、銃弾を斬って捨てるような真似をした。
「アマリエ、ここにいて」
 わたしは駆け出す。
 あの小銃の装填にどれほど時間がかかるが知らないが、とにかく間に合ってくれと心の底から祈った。祈る先は、先に祈った相手と同じ。もしもこれが叶わぬならば、二度と祈ってやるものかと心中で毒づいた。
 幸いにして、死体は建物の入口側に集中している。踏み越える手間がかからないのは、今でこそ単純にありがたいばかりだった。
 そしてもうひとつ幸いだったのは、わたしの手中に剣があったこと。階段を登りながらその鞘を払って投げ捨てる。鞘走りの音は、場違いなほどに軽やかだった。
 ここに至ってはじめて目の当たりにした剣の白刃は――コウが打ち、クロイツが折り、ラリューシャが繕った刃は、薄明の中でもわたしの顔を映す。
 刃紋に歪んだ顔は、まるで知らない誰かのよう。思わず窓を見やったが、そこに自分の顔は映るものはなにもなかった。
 視線を落とせば、雪にまみれた硝子の向こうで、未だ二頭の獣が争っている。霧雪と風花に蹴り立てられた雪が混じり込み、戦況まではわからない。
 ふたたび覗き込んだ刃の中の誰かは、花緑青の目で笑っているようにも見えた。
「アルトゥール」
 けっして重くはない長剣の柄を両手で掴んで、わたしは曲がり角を飛び出す。
 片眼鏡の書記官は結局のところ、わたしに撃たれたおかげで思うように動けないでいるようだった。たとえ皮膚と肉を突き破ることがなくとも、銃弾が当たった打撲はそれ自体が相当な痛手なのだ。
「銃を捨てなさい」
 その証拠に、アルトゥールはまだ銃弾を詰めることができずにいる。こうなってしまえばもはや、どちらの一撃が早いかなど自明の理だった。彼は最後に深々と息を吐いて、手にした小銃をこちらへ投げてよこした。
 わたしはそれを曲がり角の向こうに蹴り飛ばし、開かれた窓から外を見る。
 まるでわたしを待ち構えていたかのように、悲鳴がした。
 そして見間違いでなければ、たしかに赤い色が雪煙の中に尾を引いた。
 にわかに薄まった雪帳の向こうで、蹈鞴を踏んでハイロが下がる。目元を抑えたその手の甲に、青黒の獣毛など影も形もなかった。
「まだやるか」
 クロイツは肩で息をしながら、それでも構えを解かない。
「次は殺すぞ」
 降り積もった雪の上には、点々と赤色が散っている。そのけざやかな色彩に、わたしはなにが起きたかをはっきりと悟った。
 いかに殴り合いには向かないとはいえ、クロイツにもまた獣としての本性がある。黒曜石にも似た爪を備えた、梟の姿が。――彼は瞬きほどの刹那に変化を解いてその姿に転じ、鋭利な爪を以てハイロの目を引き裂いたのだ。
 目元を抑えたまま、ハイロは首を振る。
 この二階にも聞こえるほどの獰猛な唸りを上げ、蹌踉めきながらも前へ進もうとする。対峙するクロイツは今度こそしっかりと拳を握ったが、それが暴力のために振るわれることはなかった。
 理由は明白、広場のほうで青い炎が上がったせいだ。
「……あなたたちは終わりだよ」
 月明かりよりも煌々と照る炎が雪を舐め、それを逃れた白花が嵐を模して渦を巻く。この西方の街を治めるあるじ、エクリールの帰還である。
 いかなる方法でそれを悟ったか、ハイロはひと息に、炎から離れた塀の上へと跳躍した。
 クロイツだけであれば彼の手で下せた可能性もあろうが、エクリールが戻って来たなら話は別だ。かつて〈銀の壁〉に立ってこの街の営みを守ったあのひとは、おそらくもっとも偉大な魔術師の手にさえも余る。
 青火に追われて塀を下るその前に、ハイロは月のあるべき方角へ向かって吼えた。
 長く長く音を響かせたそれは、わたしがはじめて聞く声だった。けれども終わりは雪風巻と炎に巻かれて、一切の余韻を残さない。

 この夜捕らえられた〈内通者〉はアルトゥールを筆頭に八名。死者まで含めれば、その数はおおむね倍となる。
 彼らの調書を幾たび捲っても、インクの海にハイロの名を見つけることは叶わなかった。